桜の匂いも薄くなった、学校からの帰り道。
十字路を曲がった時、見慣れた後ろ姿が目に入った。
──あ、弦一郎。
あの、濃いグレーの立海ブレザーにキャップをきっちり冠った姿は、間違えなく隣の家の幼馴染み。
彼の家で良く会う柳くんと、本屋さんの前で立ち話をしている。
学校も違うし、いつも遅くまで部活のある彼と帰りが一緒になることは普段ほとんどないけど、始業式を終えて数日の今日は流石にまだ早いみたい。
小さな偶然にちょっと嬉しくなって、どれだけもない距離を彼へ駆け寄る。
「弦一郎。」
背を向けた彼のその腕に触れながら名前を呼べば、顔だけこちらを向けた弦一郎は驚いた様子で瞳を凝らした。
「ッ、」
不意打ちだと言わんばかりに慌てた声が可笑しい。
表情も絵に描いたようで、思わずくすくすと笑う。
と、こちらへ向き直った彼は微かに眉根を内に寄せ、コホンと一つ咳払いをしてから伺うように入り口へ目を遣って。
「いま帰りなのか?」
なぜか小声で訊いた。
私に戻した視線も下げ気味に、耳打ちするような格好で。
──お店の中?
つられるようにその視線の先へ目を向けても特に変わった様子はない。
──何を気にしてるんだろう?
不思議に思いながら弦一郎を仰ぐ。
「うん、そうだけど…」
「ならば早く帰れ。」
「え…?」
「聴こえなかったのか?」
それは予想していなかった言葉で、無意識にその瞳をじっと見詰めれば、弦一郎は私の腕をぎゅっと掴んだ。
「蓮二、すぐ戻る。」
柳くんへ伝えた声がなんだか焦っているようで気になったけれど、それもすぐ、強く掴まれた腕の痛さに擦り変わってしまう。
「弦一郎、痛い。」
痛みを訴えても、柳くんが見兼ねた様子で名前を呼んでも、彼の耳には入っていないようで、その腕はただ私を引っ張っていこうとする。
それならもう、屈強な腕に敵うはずもない私の足は進むことしか出来なくて。
弦一郎に引っ張られながら、柳くんへ苦笑混じりで微笑んだ時。
「真田、どこに行くんだ?」
入り口の方から少し高めの声が弦一郎を遮った。
知った声にそちらへ目を遣ると、そこにはやっぱり幸村くんの姿が。
去年、弦一郎の応援をしに行った試合で話して以来、幸村くんとはそれなりに仲も良い。
時々遊びに誘ってくれたりもするし、もう友達と言ってもいいかも知れない。
こんな状況だからぎこちなかったけれど、挨拶の代わりに小さく微笑めば、幸村くんも静かに口の端を上げて返してくれた。
そんな幸村くんとは反対に、弦一郎は渋い表情。
「…いや、どこへも行かん。」
「そう。じゃあ彼女は?」
「 は、だな、」
歯切れの悪い弦一郎から、掴まれた私の腕へ目を移した幸村くんは、答えを待たずに何かを含む様子で笑った。
「そういう事をされると、かえって追い掛けたくなるもんだよ?」
「─ッ、幸村!」
思わずビクリと身を竦めるほど、その声は尖っている。
同時に後ろで、静観していた柳くんの、ゆるりと距離を詰める気配。
反射的に弦一郎を振り仰ぐと、射るように幸村くんを見据える瞳が映る。
その表情と今の遣り取りに、なんとなく、なぜ弦一郎が早く帰れと言ったのか分かった気がした。
確かに幸村くんは、会えば私を良くかまう。
でも、適当な言葉遊びも髪に触れるのもいつも軽くて、本気だと感じたことは一度もない。
それに…
「弦一郎。」
───私にはあなたがいるから。
仰ぐ姿勢のまま掴まれた腕を曲げるように上げて、彼の腕に触れた。
私が腕に触れたことで、幸村くんからこちらに視線を移した弦一郎のハッと見開かれた瞳に、何も心配しないでと思いながら。
そのあとすぐ、幸村くんの小さく笑う声が耳に届く。
「やっぱり真田の逃げ切り勝ちか。」
ぼやくように、けれど軽い調子で話した幸村くんの声で、慌てて弦一郎は私の腕を放した。
「…誤解だ。」
「誤解?」
「はただの幼馴染みで…」
「それなら俺が本気になっても何も言えないな。」
「……」
押し黙る弦一郎と、声を詰めて穏やかに笑う幸村くんと。
後ろで柳くんが嘆息を混ぜながら「も苦労するな。」の一言を。
すこし恥ずかしかったけれど、こんな空気が嬉しくて、そしてちょっと、弦一郎が羨ましかった。
まだ何も始めていない私達は、それでもちゃんと繋がっている。