陽が沈んでも下がり切らない気温は中途半端に温くて、不快感に訴える。それを煽るのは、もう耳に馴染んでいるはずの、捲し立てるような蝉の声。
そんな、徐々に色を濃くして行く夜と、それに比例して集まった人が起こす喧噪、そして幾重にも重なる夜店の灯りの中をと歩く。
普段下ろしている髪を結い上げたの、藍地に雪の輪ような柄を白く抜いた浴衣姿はそれなりに清涼感があって、この暑さを幾らか和らげてくれているような気がする。
これで風が抜ければずっと過ごし易くなるだろうが、この人込みでは望むだけ無駄だ。
形だけでも風を作ろうと、が家から持ってきた、今は俺の手にある団扇を小さく扇いだ。
その、ほんのわずか動いているに過ぎない空気に、甘い香りがふわりと広がる。
「国光。」
にっこり笑って俺を見たが差し出した、来て真っ先に買った綿菓子はまだあまり小さくなっていなかった。
視界を被う、いかにも柔らかそうな純白に目元は微かに緩んだが、この手の甘さは得意じゃない。
それはコイツも知っているはず。
「甘いものが苦手だと知ってるだろう?」
「うん。でもこういう時は別かな…と思って。
思ったより甘くないのよ?」
「いや、遠慮しておく。」
「そう…。」
やんわりと断るとは残念そうにその手を下ろし、空いている方の手で綿菓子を千切って口に運んだ。
相変わらずコイツは分かり易い。
目に見える形で感情を表わすのは幼い頃から変っていなくて、綿菓子を千切る指先の緩慢な動きに、昔の、そして今のを見る。
「美味しいのに勿体無い。」
懐旧を感じた所為か、わずかに気落ちした表情を覗かせるがすこしだけいじらしく見えて薄く目を細めた。
「金魚すくいなら。」
「あ、そうなの!金魚すくい!」
声を弾ませ俺を振り仰いだの笑顔が目に痛いほど鮮やかで。
最近感じるこんな一連の感覚を、俺は胸中に持て余す。
すぐに綿菓子食べちゃうわね。と嬉しそうに微笑む彼女の、その手の先のわたあめがまた、もう団扇を扇いでいない空気にふわりと香った。
「また逃げられたー。」
パシャリと水を弾いてポイが空を切る。
あと数回水に浸かれば破れそうな様相を呈しているポイはもう二度目のもの。
一度目に一匹も掬えなくておまけで貰った彼女の金魚と、俺の掬った分の金魚が一緒に入る透明な袋を手にした、悔しげな
を見遣る。
「簡単には掬われてくれないだろうな。」
「それは分かってるんだけど…っと、あー。」
一度網に乗りかかった金魚は体を捩らせてかわし、するりと水に戻っていく。
「なんで上手くいかないかな?」
息を落として呟いたの、納得がいかないと言った様子が絵に描いたようで可笑しい。
わずかに咽の奥で笑うと、こちらを振り仰いだ彼女は恨めしそうに唇を尖らせた。
「笑わないでよ。かなり悔しいんだから。」
「ああ。おまえの落胆ぶりが可笑しくて、つい。」
「どうせ私は国光みたいに上手くないわよ。っていうかもう1回やらない?」
俺の右手を掴んだの手に引っ張られて再度膝を折る。
「これ以上金魚を持って帰ってどうしろと言うんだ。」
「…国光の頭の中には合理性と有用性の判断基準だけが詰まってるのかしら。」
「あるに越したことはないだろう。」
「そうね、無いよりはマシかもね…って、またー。」
水槽に向き直って俺が誘いに乗らなかったことを皮肉めいた言葉で揶揄したは、さっきと同じように掬いかけた金魚をアルミの容器に入れることが出来なく
て、声に出して溜息をついた。
「自力で一匹は掬わないと今夜悔しくて眠れないわ。」
水の中をゆるゆると泳ぐ金魚の群れへ指を指してバカにしてるんでしょ?と話し掛けるに、知らず知らず笑みが浮かぶ。
「もっと斜に入れるといい。」
教えようと、ポイを高めに水へ入れようとする手を握った時。
さっきの香りが鼻を掠めた。
一瞬無意識に手が止まる。
綿菓子の、甘い香り。
いや、違う…。
さっき微かに綿菓子の甘さに混じって薄く香っていた、甘い香り。
違和感を覚えるその香りを気にしながら、の手をそのまま動かした。
俺の手に収まった彼女の小さな手は、持った網に赤い金魚を掬って容器へ入れる。
「はぁ…なるほど。」
妙に感心したが容器に張った薄い水の中を泳ぐ金魚へ視線を向けている間。
手を離して戻した距離に、それでも残っているような気がする香りを意識の中で確かめる。
それほど強くない、柔らかで丸みを帯びた甘さ。
綿菓子だと思っていたのに。
「なんとなく、自力で掬えそう。」
「別にどうと言うことでもないだろう?」
気にしていることを悟られないよう努めて声をフラットに返しても、一度感知した甘さに鼓動はほんのわずか落ち着きを欠いていた。
───お前の香りだったんだな。
ゆっくり立ち上がると、やんわり動いた空気にその香りが舞う。
───俺の知らない甘い香。
良く知るの、香り。
何かひどく心許ない気持ちになった。
『やった!』
ようやく自力で掬えたらしい、嬉々としたの細い声が耳にやんわりと響く中、違和感と儚気な感覚に捕われた自分を隠すように目を伏せた。
ずっと一緒で知らないこと等ないと思っていたのにな…。
その香りはしばらく俺を捕らえて放さなかった。
街灯がちいさく足元を照らす人気の薄くなった裏通りは昼間溜め込んだアスファルトの熱が加勢してまだ気温を温いままにしていたが、それでも時々抜けていく風の温度はさっきより下がっているようだった。
正に祭りのあとの帰り道はすこしの物悲しさを含んでいて、それは楽しんだ分だけ強要される、日常のサイクルに戻るための副作用のように感じられた。
左手に持った透明な袋の中で泳ぐ金魚を眺めるの横顔も、心無しかすこし寂しげで、袋を突く指先は名残惜しそうに見える。
「結局自力で掬ったのが一匹だけってどうなの?」
狭い水の中でゆっくりと胸のひれを動かす金魚が軽く突くの指先の振動に反応してぴくりと小さく跳ねた。
「金魚の方が利口だったと言うことだろう?」
「何かさらりと、ものすごく酷いことを言われた気がするんだけど。」
「気のせいだ。」
からかうように返せば、ふっとこちらに顔を向けて俺をまじまじと見返したは大袈裟にヒドイと言ってからクスクスと笑った。
いつもと同じように交わす軽口は気持ちも空気も和ませる。
その、和んだ気持ちの温度が心地良かった。
この温度も距離感もコイツだから心地良い。
何かを特別意識する必要はないのだから。
そんな胸中を知っているかのように、の笑い声が不意に止んだ。
「でも、そんな風に言ってると、そのうち国光の前からいなくなちゃうよ?」
首を傾げて覗き込み、こちらを伺う。
取り立てて気にするような言葉じゃないと分かっているのに、何故かある種の決定的な事実を告げられたようで。
「いなくなるとは?」
考えるより先に言葉が口を衝いた。
じっと俺を捉えるくるりとした涼しげな瞳に、また鼓動はわずかに落ち着きを欠いていく。
「国光、そうやって苛めるから。」
悪びれず微笑み金魚へ視線を戻したの、その言葉はきっとどんな他意も含んでいない。
なのに、曖昧な意味を持った返事だと感じるのはなぜだろう。
金魚がパシャッと水の中で大きく跳ねた。
「ね、国光。手、繋ごう?」
袋を右手に持ち替えた
は左手をそっと俺の右手に寄せる。何も言わず、その手を握った。
それからはお互い何も話さなかった。
聞こえるのは、ときどき水の中で跳ねる金魚が軽く立てる水の音と、控えめに響くの下駄の音だけ。
繋いだ手はやっぱり小さく、そして細く頼りない。
手の小ささも華奢な指も、何も変っていないはずなのに、全てが変ってしまっている気がした。
きっとこの感覚を彼女に話しても理解出来ないだろう。
何かを話すにしろ、どう口にしていいか判らず、繋いでいない方の手を握り込んで。
「もう家…。」
柔らかく響いたその声と同時に、互いの家をこの視界に捉える。
伏し目がちに見遣った彼女は綺麗な笑顔を見せていた。
「楽しかった。ありがとうね、国光。」
「ああ。」
一度家の前で足を止めて繋いでいた手を離す。
小さな細い手が俺の手からするりと抜けて離れていくのをひどく遣る瀬なく感じる俺は、一体彼女に何を感じているんだろうか。
おやすみ。と告げる唇が少し、ほんの少し艶やかに映った。
カラ、コロ、と下駄の音が遠ざかる。
一度も気にしなかった、の物音。
それは本当にしっとりと耳に響いてずっと残りそうだった。