短い夏を惜しむ蝉しぐれが耳に季節を伝える昼下がり。夏休み真っただ中なら一番暑い時間を過ぎてもまだ空気は暑い。
特に今年は酷暑で、先日四十度近い気温も記録したくらいだから余計そう感じる。その暑さをやり過ごすには風がないと厳しいのに、残念ながら凪いでいて。
家に着いたら真っ先に麦茶、飲もう…。
お母さんに頼まれたお使いの買い物袋を持ち直し、微かに感じる額の汗を手の甲で軽く拭う。
午前中に作った麦茶はもう冷えている筈。
昨日ご近所から貰ったゼリーも多分まだ残ってる。
涼しい部屋でのささやかな幸せを思い浮かべながら歩く帰り道は、すこしだけ足取りが軽くなった気がした。その途中の、もう家は目の前という所で。
「国光…?」
視界の先に捉えたのは、家の隣の幼馴染みの姿。身体を屈めがちに、家の前に出した自転車へ手を伸している。
テニス部が休みなんて珍しいし、たまの休みも自主練習している彼のあんな姿は滅多に見ない。
同じ学校でもクラスが離れているせいで普段あまり顔を合わせないのに加え、彼には夏休みに入ってすぐ大きな大会も控えていたから、姿を見る事自体、久し振りだった。
大会が終って今のうちに休んでいるのかも知れない。
そんなふうに思いながら、彼の元へ足を進める。
「今日はテニス部、お休み?」
私が声を掛けたことで動かしていた手を止めた国光は、自転車に向き合ったままゆるりと顔だけ上げた。
「か。」
私だと判って自転車に目を戻した彼の手が、また動き始めて。
「大会が終ったからな。」
カチャ、と軽い音をさせ、ブレーキの様子を見ながら話す国光の反応はいつも通り薄い。
日頃からこんな感じなら取り立てて何かを思うことはないけど、久し振りに会って顔を見ただけなんて幾ら何でも薄過ぎる。歯牙にもかけないってこういうことを言うんだろう。
ちょっと悔しくなって、その隣に並んでみた。
「自主練もお休みなの?」
「いや、これから壁打ちに行く。」
「…やっぱり。」
過ぎるほどテニスに一辺倒な国光だから、“丸一日ラケットを握らない訳がない”そう思いながら口にした言葉に返ってきたのは、期待を裏切らない、そして彼らしい返事で、思わずクスッと声が漏れる。
玄関脇の塀にはテニスバッグもしっかり置いてあるし、ついつい頬を緩めたら、何かに引っ掛かったらしい国光はふっとこちらへ向いて眼鏡の奥の瞳を凝らした。
「おまえ、俺がテニスのことしか考えてないと思ってるんだろう?」
「えっ、」
あまりに直球な話の展開に、声にならなかった焦りが喉の奥でキュッと鳴って。
「…と、思ってないよ?」
誤魔化し半分でニコッと笑えば、珍しく口の端を上げた国光の、詰めがちに笑った声が後を追う。そしてまた自転車に目を戻し、ブレーキを確かめ直す彼。
「は本当に分かり易いな。子どもと同じだ。」
手を動かしながら話すその顔には、まだ笑顔が残っている。
そんなにはっきりと笑顔を見せるなんて、よほど私の反応が可笑しかったらしい。
物心ついた頃からずっと一緒の私達には他人に接するような距離感がほとんど無いから、時々こうやって私をからかう国光の子ども扱いにも、慣れたと言えば慣れたけど。
からかわれればやっぱり悔しくなる。それは最早、条件反射だと思う。
ただ、滅多にはっきりした笑顔を見せない彼が私の何かで笑ったんだと思ったら、嬉くなるのも確かで。
でも、嬉しく思う事がまた悔しい。結局どっちか判らない、複雑な心境。
「どうせ私は子どもですー。」
心の内をそのまま見せるように、わざと唇を尖らせた。
いつもと同じで彼はきっと何の反応もしないんだろうと、すこしだけ寂しく思いながら。案の定、その視線がこちらを向くことも手が止まる事もなくて…
「ああ、だから安心していられるんだ。」
その代わりのように動いた唇は、不可解な言葉を紡ぐ。
「…あん、しん?」
無意識に声にして自分の耳で確かめても、いまいち意味が掴めない。
とりあえず判るのは、私が分かり易いから国光は安心しているということ。それならなぜ、私の分かり易さと国光の安心が繋がるんだろう?
すっきりしない胸の内を解消したくてじっと彼を見詰めれば、屈められていたその身体が不意に勢いを持って上がった。
「気にしなくていい。」
サドルに手を掛けた彼は目をそこに置いたまま、幾らか強い口調で話す。その挙動の、どことなく不自然な印象が増々怪訝。
「どうして?」
「独り言のようなものだ。」
「独り言…」
「深く考えるな。」
「はっきりしないのって、胸に何か残って気持ち悪くない?」
覗き込みたい気持ちを押さえて返したそのすぐ後、サドルを上げていた音がぷつりと途切れて。
首を傾げるように伺うと、国光はもう一度ゆるやかに私を捉えた。
「そのうちな。」
すこし困った表情に浮かぶ小さな笑みが、本当に困っている訳ではないことを告げる。眼鏡の奥の瞳にも、やわらいだ気配。
そんな彼の纏う空気はいつになく優しげで、微かに甘くて、私の良く知る国光とは全然違っていた。
それは例えば、今まで一緒に遊んでいた悪戯仲間がある日突然大人になったような。
国光は前から大人びているけど、そういう一般的な“大人”とは違った異性的な何かが彼を引き立てている気がした。
なんだか落ち着かない。脈も騒々しくなっていく。
そう、さっきの笑顔だって。
──私、国光を意識してる…?
すっきりしない胸中より“そのうち”の意味より、抱いた不慣れな感覚に心は微かに揺らいで。
空いている方の手が無意識に、テニスバックを取った彼の腕より先にハンドルへ掛かった。
「なんだ?」
不可解なのは私も一緒だと、彼の不思議そうな表情と声で思う。
だから尚更。
「うん…」
確かめたい。
この感じが何かとか、どこから来てるのかとか、私自身の気持ちとか。
レンズの向こうで凝らされた瞳は、私の手に目線を合わせてから改めて私を映し直す。
「どうかしたか?」
「あのね、」
このあと涼しい部屋で楽しむつもりだった麦茶とゼリーを思うと、内心、ちょっと残念だけど、多分今は確かめる方が大事。
「…ついていっても、いい…?」
聴こえる蝉しぐれが耳にじわじわと熱を広げてあつい。
彼の瞳に映った私を確かめるように仰いだ表情は眉根が内に寄って、戸惑っているとわかる。
どんな時にそういう表情をするのか知っているなら、きっと彼は首を縦に振らないと思った次の瞬間、厳しかった眼鏡越しの眼差しがうっすらと解けた。
「一緒に来るなら帽子を被ってこい。」
仕方ないと言いたげに話す表情は、ちょっと面映そう。
「…いいの?」
「駄目だと言ったら萎れるだろう。」
「そんなことないと思うけど…」
「じゃあ駄目だ。」
「えっ、」
明らかにからかう口調だと判っていながら、それでも駄目という言葉に反応するのは、久しぶりに彼と外に出る事を嬉しく感じているからだと思う。
「早く取ってこい。暗くなるぞ。」
「すぐ戻ってくるね、待ってて!」
自転車のスタンドをゆるく蹴り上げた国光にいっぱいの笑顔で答え、家へ駆け出した。
陽はその高さを地面近くまで下げているのに、まだ正午並みに暑いなんてどうなってるんだろう?
木陰に入っても風はあまりなくて、暑いままの空気が半袖のシャツの下にも入り込んでくる気がする。壁打ちの出来るこの公園は家からちょっと離れているし、しかも二人乗りは違反だと言って国光が自転を戻してしまったから、歩いて来たせいで余計暑い。
「風、出ないかな…」
「今日は期待しない方がいいだろうな。」
団扇代わりの帽子をぱたぱたと振って独り言よろしく話せば、国光はラケットを取り出しながら至って普通の表情で返した。その答えがどうしようもなく真っ当なことに、すこしだけ恨めしさを抱く。
前々から思っているけど、彼の中には多分、“希望的観測”という言葉がない。所謂“気休め”的な発言をほとんど耳にしたことがなければ、きっと本当にリアリストなんだと思う。ただ、こういう暑い日はそれを宥めるくらいの気休めも欲しい訳で。
「んー、風の神様にお願いする。」
まっすぐ前へ向き直って意図的に、突飛押しもないことを口にしてみた。
私が子どもじみたことを言うと、いつも国光はやれやれといった表情で受け流すから、きっとまた“こんな歳にもなって”なんて言うだろうけど。
するとやっぱりその顔が小さく上がって、ほら、唇は───
「俺の分も頼んでおいてくれ。」
──…え?
予想と正反対の言葉が聞こえたことで驚くのも忘れ、声にならなかった唇のまま彼を見詰める。肯定する言葉を口にするなんて、意外というよりほかに言い様がない。
そんな私を前に彼はまた、さっきの空気を醸して微かに目元を緩めた。
「この暑さが軽減されるならそれも有りだろう。それに、」
私の脈もまた、さっきと同じように反応して音を大きくしていく。
「結構好きなんだ、おまえのそういうところ。」
柔らかい笑みと一緒にあっさりと言ってのけた国光の、その声で聴く“好き”という響きだけ、溶けるように耳の内側で広がった。
特に深い意味があって言ってる訳じゃないことぐらい判るのに、なぜだろう?
心臓の音はありえないほど強くなる。もうそれこそ、痛いぐらいに胸を叩きつけて、ラケットを手に立ち上がった彼を振り仰ぐことはできてもなかなか声が出てこないほど。
誰かの一言でこんなに揺さぶられたのは初めてだった。
「ちょっと…嬉しいかも…。」
やっと発した声は小さくて、自分で聴いてもなんだか頼りない。でも、まるっきり相手にされていないと思っていたのが瞬時に好転すれば、嬉しいことに違いはなかった。何より、私にとって運命的な言葉になると。
「私も好きよ?国光の堅実なところ。」
胸の内側に覚える思い過ごしと言うにはあまりに大きい、不確かな予感を噛み締めながら微笑んで返す。
今度はしっかり声になった言葉を改めて思い返すと、やっぱりちょっと気恥ずかしい。だって“好き”の意味もいろいろだし、幾らか驚いた様子で瞳を凝らした彼がどう受け取ったのか気になって…。
そんな気恥ずかしさを紛らわすように仰いだまま微笑み直したら、国光はふっとぎこちなく視線を外して背を向けた。
「ちゃんと水分は摂れよ。風がなければ体に熱も籠り易くなる。」
どうもすこし照れているらしいことを、その口調で知る。
「うん…、気をつける。」
返した私の声もどことなくぎこちなかったけれど、今の私たちにはきっとこれが精一杯な気がした。
壁側へ歩いていく国光の肩ごしには、時間を度外視した空の抜けるような青。
それがとても彼に合っているように感じれば、歩く姿にさえドキドキする。ボールを地面に弾ませる手にも、ラケットを掲げたサーブスウィングの腕にも。
ただ、こんな気持ちを国光に抱くなんて思ってもみなかったから、戸惑いは拭えなくて。
──なんだか、「やっと」っていう感じ…。
壁にボールの当たる音が響きはじめ、それを追う国光を見ながら軽い息を落とす。
まだ幼い頃に同じぐらいだった背丈は、いつの間にか国光の方がずっと高くなっていた。声だって気付いたら低くなっていたし、手も肩も背中も、知らないうちに大きくなってた。それは多分、彼にとって私も同じ筈。
そんな風に成長過程も曖昧なほど異性を意識する前から一緒なら、興味を持つ対象には遠い。彼が異性だと実感するようになった頃にはもう、私は別の人を好きになっていたり、戯れてはいても素通りで当たり前だった。
だからやっぱり、「やっと」。
確かめたかった答えが恋でいいのか、まだ分からないけど、いい加減遅咲きなこの気持ちと、気付かせてくれた今日という日は大切にしていきたい。
ボールを追っている国光の、真剣なこの姿も一緒に。
改めて捉え直した彼は珍しくボールを外してしまって、肩越しに飛んでいったそれを取りに、後側へ歩いていく。
歩きながら額を拭う様子はいかにも暑そう。
木陰に入っている私より陽の下にいる国光の方がずっと暑いのは明らかだし、壁打ちとはいえ動いているんだからきっと相当だと思う。
強い陽射しと蝉しぐれは、まだ空いっぱい。
風も凪いだまま。
──風、出てくれますように…。
心の中でひっそりと、誰に向ける訳でもなく呟いた。
お願いらしいお願いじゃない気休め程度の遊びごとは、それでもちゃんと彼の分も込めたから、もしかしてして本当に吹いてくれるかも知れない。…なんて、半分冗談で半分本気なことも、お約束のように思ってみる。けれどやっぱり動きそうにない空気は無言で暑さを伝えるだけ。ちょっと恨めしい気持ちなって、空へ視線を投げたその途中。
ボールの元で足を止めた国光の瞳が、ふっとこちらへ向いたのに気付いた。
瞬間、真新しい気持ちを改めて知らしめるように、胸の奥でトクンと音がして。ボールを拾い上げた彼の、私へ向けられた足先に、ようやく事の重大さを認識した。
彼との関係がそれなりに出来上がっている今、もし意識していることを気付かれたら、きっと間違えなく今まで通りではいられない。やっと気持ちが国光に向かい始めたことで、さっきまではなんとなくジンとしていたけど、そんな悠長に構えている場合じゃなかったと狼狽える。
それはもう、小説の中にあるような、幼馴染みの関係を崩せない女子の典型。
どうしよう、と心は何度も訴える。それとは反対に距離は縮まって。
思わず下を向いても何の解決策にもならないと分っていながら、結局顔を上げられなかった視界はすんなりと彼の足先を映してしまう。
「やっぱり風がないのは厳しいな。」
頭上で聴こえる耳馴れた筈の低音が別の人のもののように感じられた。
まだ不慣れな感覚は私をまるで拙くして、こくりと一度頷くだけでいっぱいいっぱい。そんな私を脇に、しゃがみ込んだ国光はテニスバッグに手を伸す。
バッグを開ける音や、蝉の声や、近くで遊んでいるらしい子どもの声とか、そういう音全部をちゃんと聴いている筈なのに、なぜかみんなとても遠い。
一つのことしか頭になくなると、こんなにも平静さを欠くのかと思いながら、できるだけ自然に、持ってきたお茶へ手を伸しかけて。
「…っ、」
全然気付いていなかった彼の、しゃがみ込んだまま小さく私を覗き込む眼鏡越し視線に、一瞬声を飲んだ。
思わず僅かに跳ね上がった私の顔をじっと見る眼差しはとても真剣。
なんとなくバツの悪さを感じて、臆しがちに目で「なに…?」と訊けば、その手が前ぶれもなく額に触れた。
「…きゃっ、」
「顔が赤い。じっとしていろ。」
いきなり触れた掌につい首を竦めた私へ、お決まりの窘める言葉を向ける国光はまだ何も気付いていない。勿論そうでなくちゃ困るんだけど、どうも具合を悪くしたと勘違いさせたらしいことが分って、また別の意味で困ってしまった。でも余裕なんて全くないなら、目線を小さく落とすだけでやっと。それを当たり前に知らない彼の手は、一呼吸おいてからそっと離れていく。
「熱っぽくはないようだな。目眩や頭痛は?」
返事を待って慎重に伺う、凝らされたままの瞳が痛い。脈も心も全部、慌てふためいている。
もう本当に許して…と、懇願したくなるぐらい、なんだかくすんと泣きたい気持ちにさえなった。
声もちゃんと出せるか怪しい…。だからただ、小さくふるふると首を横に振って。
「それなら大事にはならないだろうが、安静にしていた方がいい。」
私がきちんと声にしていないから、ぼんやりしているように感じたのか、気遣う調子で話すその表情は変わらなかった。
心配して気遣ってくれていることに小さな嬉しさを抱いたけれど、これじゃあ仮病で心配を掛けているのと同じで、どうしても訂正しておかなきゃ気持ちの上で良くない。
「ううん、大丈夫! 怠くもないし普通、だから心配しないで?」
慌ててまた首を横に、今度は強めに振って、何ともないことを強調する。途中、違和感を感じた“普通”につかえてしまった声は、それでも割とちゃんとしていて、ほっと胸を撫で下ろした…のも束の間。すぐに返ってきた厳しい目で、結局ゆるゆると視線を落とすことになった。
その先に見える彼の手には、持ってきたタオルが握られている。もしかして濡らしに行くつもり?
「国光、ほんとに大丈夫、」
「、」
「とっても元気だし、暑さに負けてるだけだから。」
「。」
名前を二度呼ばれて、ハッとする。
「軽く考えていると後で泣く事になるぞ。」
嗜めた声も眼差しも厳しいままの彼に、どう話したらいいんだろう…?
まさか本当のことなんて言えないし、かといってこれじゃあ心配させたっきり。いよいよ本当に泣きたい気分で何か解決策はないのかと考え巡らせ、視線を中へ向けた時、葉を揺らす木々の微かな音と一緒に薄く動いた空気の流れが、さわ…と耳を撫でた。
それはうっすらと軽くて、涼やかとは言えない、それでもちゃんと風だった。
「あ…」
なんだか嬉しくなって目を高く上げて、確かめるように空を仰ぐと、国光の顔も同じように上がる。
私たちが仰いだ空はやっぱりとても青い。
「お願い、聞き届けてもらったみたい。」
自然と目を細く細く、彼に向けた。
「ああ。」と一言だけ返す彼の目にも、穏やかで優しい色。
それが一番嬉しくてこれ以上ない笑顔で返したら、タオルを持ち替えた左手に頭をふわふわと撫でられた。さながら小さい子をあやするように。
「風も出てきたし、大したことはないようで良かった。だが念のため休んでから帰ろう。ほら、肩に凭れるといい。」
まるっきり子ども扱いのその仕種と、訂正するのは諦めた方がいいらしい誤解に、満面だった笑顔もつい小さくなってしまう。でも、今は甘えていいのかも知れない…。
「ありがとう…」
言われた通り、その肩に凭れ掛かった。そしてすぐ国光の手がもう一度、宥めるように優しく額に触れる。
掌の温度はさっきより下がっていて、すこしひんやりとした感触が気持ちよかった。