それは夜。ふと、あなたに会いたくなる。
いつも特に何かきっかけがあってではなく、本当に、ふと。
大体が深夜に近い時間、部屋で一人で過ごしている時。
共通点はそれぐらい。
今も中間試験の勉強中、一息ついた時に侑士のことが思い浮かんだ。
たぶん、窓の外にうかがう秋の綺麗な月や空気が彼に重なったからだと思う。
この、しっとりと広がる夜の闇に似て、彼の纏う空気感は深く優しい。
だからきっと夜一人の時は、この空気や色に、つまりは彼に、包まれたような気になるんだろう。
「今、何してるかな?」
小さく開けたカーテンの向こうに見える、ひっそりと静かな月を仰ぎながら、侑士を想起する。
切れ長の目や、長身な立ち姿。
広い背中も長い指も、大好きな彼を形作る大好きな要素。
ひとつひとつ取り上げて思い出していたら、とても会いたくなってしまった。
時計を見ればもうすぐ日付が変わろうとする時刻で、こんなに遅くてはさすがにメールも無理だとため息をつく。
せめて月を仰ごうとカーテンを薄く開け、その時、窓の向こうに微かな違和感を覚えた。
目を遣って捉えたそれは、どうやら人影。自転車を押しながらゆったりと動いてこちらへ近づいてくる。
けれどいちいち取り上げるようなことでもないし、特に気にせずカーテンを閉めようとして─────
───まさ、か…?
その人影の主になんとなく思い至って同時に、シンと静まった空気を裂き、携帯メールの受信音が響いた。
慌てて手に取った携帯のディスプレイには、やっぱり侑士の名前が。
こんな時間にどうしてここにいるのか──とか、近いとは言えない距離なのに──とか、瞬時に疑問が駆け巡ったけれど、今は取り上げていられない。何より先に窓を開ける。
そっと、ゆっくり、誰にも気付かれないよう。
気をつけて開けた窓からは凛とした澄んだ空気が流れ込んで、一瞬肌寒ささえ覚えた。
それでも気にせず身を乗り出して見れば、窓の下まで来た彼もこちらを仰ぐ。
道の端の街灯がうっすらと照らし出したその姿は、紛れもなく今一番会いたかった人。
そして一番愛しい人。
ぼんやりと薄明るい暗がりならハッキリと見えなくても、丸い眼鏡のフレームや長身の出立ち、何よりその柔らかい雰囲気が、“俺はここにいる”と伝えてくれる。
つい今しがた思い出していた侑士のひとつひとつがそこにあるんだと思ったら、遅いとか寒いとか、もうどうでもいい。
今から下りていくから────
指で彼の方を示し、窓を閉めた。
急いで支度をしたなら洒落っ気なんて無いに等しくて、きちんと服を選べないことに幾らかがっかりしたけれど、それでも少しは綺麗に見えるよう、首元にはふわふわのストールを巻いた。
起きているかも知れないと気にした両親は幸いもう寝ているらしく、テレビの音どころかリビングの電気すらついていない。
だから音を立てないよう、細心の注意を払って玄関のドアを開ける。
この音でもし父か母かが起きても、侑士と会った後なら潔く叱られよう。
だって大好きなカレが今ここにいるんだもの。
叶わないと思っていたのに会って触れることができたら、それだけで幸せだから。
そんなことを考えながら、逸る心とは裏腹に、できる限り静かに焦らず、侑士の元へ向かった。
「侑士、」
「。」
家から少し先で待っていてくれた彼を、そして彼も私を、密やかに呼ぶ。
視界に捉えるその姿は紛れもなく侑士で、今すぐ抱きつきたい衝動に駆られてしまう。けれど今は無理。
その、厚手のコートの上から腕に手を置く程度にしておいた。
同じように侑士も、右手で私の肩口に軽く触れる。
「遅い時間やのに、外へ出させてしまってごめんなぁ。」
ストールを遊ぶように触る指は、けれど必要以上に距離を近くしない。
ちゃんと場所を弁えてくれているんだと思う。
「ううん、会えて嬉しい。でも、どうして?」
やっぱり囁くように訊くと、侑士は自嘲気味に笑って。
「勉強しててな、ふと思い出したんや。のこと。それで顔立ちとか手とか脚とか、ひとつひとつ思い起こしとったら、どうしても会いたくなってしまってな。」
小さくてもハッキリとその唇が告げた理由は、軽く私の心臓を握り込んだ。
「時間も時間やし、会えるかわからんかったけど、それでもええと思ってな。」
艶を持って届いた声さえ、もう致死量。
この人は私を殺したいの?─────
今しがた私自身が抱いていた望みを彼も同じタイミングで持っていたとわかれば、それだけで胸は苦しくなるのに、『どうしても会いたくなって』なんてコトをさらりと口にできてしまうのはあまりにズルい。
そしてこんな秘密めいた状況なら、それすらもう愉悦でしかないことを、くらりと覚えた目眩に知る。
「侑士、」
「ん?」
肩口に触れていた手が、長い指が、ゆるりと下りて腕を辿り、指に絡まって。
「ズルいよ…」
「なんで?」
私をうかがう眼鏡の奥の瞳が優しく訊いて。
「そんな風に言ったら」
「うん、」
今の言葉も瞳も指も、その全てが私を崩すのにどれだけ効果的か、この人はわかっていないんだ──────
「…息もできなくなっちゃう。」
もう本当に、涙声になりながら訴えた。
「ちょっ、、どうしたん?」
慌てた様子で私の顔を覗き込み、さも心配そうに侑士は訊く。絡めた指も強く。
けれどきっと、好き過ぎて泣いてしまいそうなんて話したら、笑われてしまうわ。
こんなドキドキする状況を楽しむことができないなんて、まるで子どもだもの。
だから言いたくない。
小さく首を横に振って耐えた。巻いたストールーの端も、動きに合わせて軽く揺れる。
「、何も言わへんなんて、それこそズルいで?」
まるで恨めしそうに眉根を寄せた仕草とは裏腹に、その声は宥めるように優しく、切ない。
「……」
そんな切ない瞳を向けるなんて、やっぱりズルいと思いながら。
けれどちゃんと言わなければいけないような気がして、彼へ言葉を向けようと微かに仰いだ。
直後、首元に届いた手がストールーごとふわりと頬を包み込み、そのまま引き寄せられて。
「───…」
唇に受けたのは優しい刺激。
不意打ちさながらだったせいで、一瞬何が起こったか解らなかったけれど、唇に触れる感触から、これがキスだと理解する。
そっと私を啄んでいく唇は甘い。甘くて、どうしようもなくズルいと思った。
いろんなことが全部、もうどうでもよくなってしまうから。
暗がりの中、重なった唇と同じように、時間も心も溶けていった。
「もう帰らなあかん…」
ストールに掛かっていた指がゆるりと下りて、また私の指に軽く絡まる。
キスの後、結局泣いてしまって、そんな私を侑士は精一杯宥めてくれた。
だから彼の声が余程切なげに感じられるのも、当然と言えば当然。
「そうだよね、帰らないとね…」
離した身体の間に入り込む空気が冷たい。
それを見越したかのように、もう一度触れるだけのキスをして。
「おやすみ、」
また泣いてしまいそうな目の奥を抑えるように、足を止める。
「また、学校で。」
指が離れていく。ゆっくりと。
また学校で会えるのに、なぜこんなに寂しいんだろう?
今度こそ泣いてしまいそうになって、ギュッと指を握り込んだ。
侑士も離した手を握り込むように自転車のハンドルへ向けてそのまま前へ。
自転車に跨がった後、すぐに一足漕ぎ出し────
「、」
一度振り返った彼は、私を呼ぶ。その瞳が揺れているように見えるのは、多分気のせいじゃない。
「息、できんようになってしまうのは俺も一緒や。そのふわふわなストールも全部、可愛過ぎるで。」
まるでさっきの私を引っ張り出したような一言を告げた。そしてするりと滑り出す自転車。
「侑士…」
遠くなっていく背中に、くすん、と声にしてみる。
きっと私はどこまでいっても侑士に翻弄されるんだろうと、そんな風に思って。
すぐにシルエットになって夜の闇に溶けた侑士は勿論、そんな私の気持ちなんて知りもしないけど。
今度学校へ行く時は、もっともっと可愛くしていこうと思いながら、侑士の指が遊んでいたストールにそっとくちづけた。