Kinari

固い約束。
若しくは無垢な結晶の落ち着く先。

車を降りて彼を待っていたら、ちらちらと雪が降り始めた。
今年は去年より寒さも緩く、まだ降っていなかったからこれが最初。しかも今日はクリスマスイブで。

少し嬉しくなって天を仰げば、夜の黒を背に小さな白い結晶が無数に舞い落ちてきて、風の薄い今夜は特にゆっくりと降っているように見える。
ともすれば止まって感じられるその光景は、まるで大きな絵みたい。

ビルの形に切り取られた空も、時にはこんな綺麗な顔を見せてくれるんだなんて幾らか感動に近いものを覚え、そのまま少しのあいだ目を奪われたように見上げていた。
だから彼が来たことにも気付かなくて。

「降ってきたな。」

背中のすぐ後ろから聞こえた声に、はっとして振り向りむく。

「弦一郎。」
「普段1本は車内に置き傘があるのだが、先日の雨で会社に置いてきてしまった。すまん。」
「ううん、大丈夫。降り始めたばかりだし、お店まですぐだもの。

彼を小さく見上げて微笑んだら、それへ返すようにうっすらと目元を緩めた彼の手が、私の頭をさらりと撫でた。
多分、雪を払ってくれたんだと思う。

「ありがとう。」

私が幸せな気持ちになるのはこんな時。

「行くぞ。」

あまり多くを話さない彼は、口にする言葉の代わりにいつもこうやって態度で示してくれる。
これから食事を楽しみにいくお店も彼がリザーブしてくれたところで、以前一度彼と来た一軒家を構えるリストランテは、1階に待ち合わせも出来るテラス付きのバーラウンジ、メインダイニングが2階で3階はパティオを備えたパーティースペースという少し贅沢なお店なんだけど。
店内の落ち着いた雰囲気やカメリエーレの柔らかな物腰に(勿論食事も!)すっかり虜になってしまった私が、それでもそうそう来れない金額のせいで、しばらくこのお店の話ばかりしていたのを彼は覚えていてくれて。

二週間前の夜、いつものように彼の家のソファーで食後のコーヒーを飲みつつイブの話を切り出したら、「その日はお前が行きたがっていた店を予約している。」と、手にした雑誌に目を落としたままで話した。

その時抱いたのも優しくてあたたかな幸福感。
彼を隣にお店までの道を歩く今、思い出せば貴方を愛して良かったと改めて思う。

「ねぇ、弦一郎。」

やっぱり優しい気持ちで満たされた私は、久々にお願いをしてみたくなって彼の左手に自分の右手を寄せた。
いつもは人通りの少ない場所でもほとんど手を繋ごうとしないけど、今日はイブだもの。許してくれそうな気がする。

、」

少し驚いた表情でこちらを見た彼がたしなめる言葉を口にする前に。
笑顔で制してそっと手を握ると、彼はちょっと困った顔をしながらも、私の手を握り返してくれた。

「弦一郎の手、いつもひんやりしてるから。こうすると暖かくなるでしょう?」
「そういうのを“取って付けたように”と言うんだ。」

溜息のような諦めのような短く切った息を落として、けれど、握った私の手を自分の手と一緒にコートのポケットに入れる彼。
その言葉はお世辞にもスマートとは言えない。
それでも、こんな風に気遣いを忘れない彼が、私はやっぱり大好き。

お店までの少しの距離を、手を繋いだまま幸せな気持ちに包まれて歩いた。



前回来てから半年近く経っているお店はすっかりクリスマス仕様に仕立てられていて、ドアを開ける前から感歎の溜息の連続だった。
でも、もっと驚いたのは、彼が3階の個室をリザーブしていたということ。

ウェディングの二次会等でも利用できる3階に個室があるのは知っていたけど、まさかそこをリザーブしているなんて思ってもみなかったから、何年か分の幸せが今日一度に降って来たような気持ちにさえなった。

アミューズから始まった食事は舌が溶けそうなほど美味しい。
車の運転を後にひかえた彼のためにソムリエが選んでくれたノンアルコールのワインも、軽くて口当たりが良く、食事をより引き立ててくれる。
出過ぎずさりげないカメリエーレの給仕はやっぱり柔和。
パティオに面して設えてある大きなの窓の向こうでは、一面の雪がいくらか積もりそうな気配を見せながら静々と舞い落ちて。

ここで今、それを眺めるのは私達だけ。

こんな素敵な事って人生の中でそうあるものじゃない。

食事にもこの空気にも、勿論こんなサプライズを用意してくれていた彼にもすっかり酔ってしまって、ゆったりとした時間を夢見ごこちで楽しんでいたら、あっという間にコーヒーまで進んでしまった。

至福を味わうって、こういう事を言うんだと、コースを締めるエスプレッソを飲みながら思う。

「こんなに贅沢なイブを贈ってもらって、本当に嬉しい。」

特別な日を更に特別にしてもらった嬉しさで、こぼれる笑顔も特別になった気がする。
エスプレッソの小さなカップを手にしたまま、彼も私の笑顔に答えて普段あまり見せないハッキリとした笑顔を向けた。

「喜んでもらえて何よりだ。」
「ええ、とても特別な日になったわ。ありがとう。」

その笑顔も嬉しくて、さっきよりももっとしっかり、目を細めて口の端を大きく上げたら。
何かを思い出したように、ふっ、とその視線が外れて。

。その、実は…だな、」

いつも快活な口調の彼が、珍しく言葉を継ぐことを躊躇っている。
常日頃、彼の闊達さを良く表わしてくれていると思うその声も話振りも、やっぱり大好きなんだけど。
今の、何度も瞬きをする落ち着かない様子は、まるで彼らしくないというか…。

こんな彼を見るのはこれが初めてかも知れない。

どうしたんだろう?と思えば、なんだか色んな想像が浮かんで、ちょっと心配になってしまった。

「弦一郎…?」

そっと、彼がカップへ向けた視線の邪魔をしないように極わずか覗き込むと、幾らか我に返った様子で彼の顔が上がる。
小さく微笑んで「どうしたの?」と伺った私の目に、彼は意を決したような表情で、真っ直ぐこちらを見て手にしていたカップをソーサーへ戻した。

ことり…と、軽く。
控えめな音がして。

幾らか強く、硬いその音が、なんだか意志を持って鳴ったように感じられるのは、何かを言い淀んだ彼に違和感を覚えたから…だと思う…。というか、思いたい…。

もし良くない話を切り出そうとしているなら、きっとこんなに素敵なイブを贈ってくれたりしない筈。

そうであって欲しいと思いながら見詰めた彼は、右手を少し動かした後、私へ向き直った。

「どんな言葉にしようかずっと考えていたのだが、
 やはり洒落た事は言えそうにない。」

いつも以上に真っ直ぐ。
普段よりももっと真摯に。

私を射る勢いで放たれた瞳と声に、一瞬ドキリと鼓動が跳ねる。同時に、こちらへすっと伸びた右手が、白いクロスの掛かるテーブルの上にそっと小さな箱を置いた。

開いてある箱の中には、室内の淡い光を集めてキラキラと光る指輪。

、結婚してくれ。」

静かに動いた唇は、そろそろ聞きたいかも…なんて考えていた言葉を告げた。

こうやってクリスマスやお互いの誕生日をお祝する事も、年単位なら片手を越えようとしていたとは言え、それはあまりに唐突だったから。
私の唇は意図せず、考えるより早く「えっ?」と形作ってしまった 。

「俺では駄目か?」

きっと、無意識に動いた唇のせいで誤解してしまったんだと思う。
じっと私を見詰めて幾らか諭すように、けれど強くない口調で話す彼に、慌てて首を左右に振る。
それこそもう、ぶんぶんと擬音をつけたくなるくらい、何度も。

「ごめんなさい、違うの。突然だったから驚いて…。」
「ならばもう一度言おう。
、俺と結婚してくれ。」

やっぱり真っ直ぐな瞳で私を見る彼は、彼の全てを伝えてくれているようだった。

とてもとても、言葉に出来ないくらい嬉しくて、世界中で今、一番幸せなのは私なんじゃないかと錯覚しそう。
錯覚じゃなくて、もしかしたら本当にそうなのかも知れないとさえ思う。

今日を何物にも変え難い特別な日へ変えてくれた彼へ、この上ない“ありがとう”を込めて。

「勿論。喜んで。」

満面の笑みをもって返し、目の前に置かれた、華やかな光りを放つ指輪を取った。





幸せな気持ちのまま外に出ると、うっすらと足元には白い色が濃さを増していた。
はじめは大振りのひとひらだった雪も、しんしんと冷え込んでいく外気に加勢されて、どうやらきちんと降ることを決めたらしい。
そんな雪とは反対に、やっぱり打ち明け話が苦手らしい彼は、店を出てから幾つか聞いた事にお茶を濁して答えてはくれない。

「どうだったか記憶に定かではないな。」
「記憶に…って。」

それも彼らしいと言えば彼らしいし、好きなトコロの一つだったりする。

───答えをはぐらかしていても、嘘のつけない貴方なら肯定しているのと同じだって、ずっと一緒だから分かるのよ?

だからクスクスと笑って。

「分かったわ、もう聞かない。でも一つだけ教えて?
予約を入れたのは、いつ?」

一番聞きたい、けれどきっと、一番教えてくれなさそうな事を聞いてみた。
“いつ、プロポーズすることを具体的に決めたのか”を。

普段は私もこんなことを聞いたりしないけど、今日は特別だから。
許してくれるでしょう?弦一郎。

、お前というやつは全く…。」

面喰らった表情で私をまじまじと見た彼に伺う表情で小さく微笑めば、深い息を落として呆れたような諦めのような笑み浮かべる彼も、そうそう見れる訳じゃない。だからやっぱり、今日は特別。

「聞いちゃ、ダメ?」

伺う色をもっと濃く、仰いだ彼に向けた。
そんな私の声を聞き終えるより先に、その足はずいっと前へ伸びていく。

「あ、待って、」

歩幅の大きい彼から置いて行かれそうになって、慌てて追い掛けようとしたら。

「お前と初めてあの店に行った日だ。
 3階に個室もあると聞いて、帰りがけに入れた。
 もっと早くても良かったのだが、色々と準備がな…。」

少しだけ開いた距離の背中越しに、はっきりとした口調の低音が届いた。

その答えにも話してくれた彼にも、不意を突かれて立ち止まる。
いつもと変わらないはずの声が、なぜかずっと心地良く感じられて、意識の輪郭をぼかす。

彼の髪に、肩に、いくつも落ちていく小さな白い色。
それはとても彼を引き立てている気がした。

彼も、雪も、なんだか全てが今日を大切な日にしてくれている気さえする。

「弦一郎!」

急に嬉しさが増して、私は少しの距離を駆け寄り、きゅっと腕を握った。
もう一度小さく息を詰めた彼の、行きと同じくそっと私の髪を撫でた手は、とても大きくて、そして暖かだった。