「センター試験の結果発表まで、どうしてこんなに長く感じられるんだろう…。」
ひゅるり、と抜ける風の冷たさに思わず肩を竦めるようになった今の時期は、寒さを訴える言葉より先に入試関連の話が声になる。
「感じ方は人それぞれだろうな。」
たとえそれが誰と一緒のときでも。
「うん…確かにそうなんだけど、なんだかずっと落ち着かなくて。」
「待つ間の心持ちは大体が軽いものじゃない。」
今学期に入ってまだ数日しか数えない登校日の帰り道、期間限定の話題に不安を漏らす私へ小さく頷いて返すこの人は、多分、この会話が哀しいなんて思っていない。
だからすこし恨めしくて、たくさん寂しくて。
伺うようにそちらを見たら、その左肩に掛かるテニスバッグの端が映り込んだ。
「…手塚くんはもう決まってるんだよね。」
自分で言った言葉に胸はくすんと泣いたけど、あと僅かな時間を笑って過したいなら、やり過ごすのが賢明だから。
ふっ、と私を見た彼ににっこり微笑んで、必要以上にしっかり前を向く。と同時に、ガコン。と、固くて機械的な音が響いた。
それは良く耳にする自動販売機の音で、出所はどうやらすこし先の公園の出入り口。
その音に、今日、あまり飲み物を口にしていなかったことを思い出す。
そう意識すればなんとなく、喉は渇きを訴えている気がした。
「ね、お茶を買ってもいい?」
彼の腕をそっと、触れる程度掴み、もう片方の手を中途半端に伸して自動販売機を指す。
指に触れる学生服特有の、厚みのあるつるつるした布が気持ち良い。
その指触りの良さに理由もなく触れたくなるのは、手塚くんの腕だから…かも知れない。
私が腕に触れたことなどまるで気にしていない様子の彼は、指した手の先の自動販売機へ目を向けてからもう一度私を見て、うっすらと微笑んだ。
何度も見ているその表情が了承の返事なのは良く知ってる。
一緒に生徒会の執行部に入った頃は上手く判断できなくて困ったりしたけど、今はそれなりにちゃんと分かるから戸惑うこともなくなった。
そしてそんな小さな笑顔でさえ、見れば嬉しくなって。
同時に苦しくて。
自分にも隠すように、過度にニコッと口の端を上げ、視線を大きく外す。
そのまま自動販売機までしっかりと歩き、取り出した小銭入れからお金を入れて。
「えぇ?売り切れ…?」
目の前の、他よりひと際赤いランプに勢いを削がれて、声はどうしようもなく脱力してしまった。
こんな間の抜けた声を聴かれるのはやっぱり恥ずかしい。
彼がまだ来ていなくて良かったと思った次の瞬間、背中にごく近いところで空気が動いた。
「そういうこともあるだろう。」
結局内心で項垂れることになった私の耳に、静かな口調が流れ込む。
背後で動いた空気は妙に優しげに隣に移って、一瞬トクンと、小さく脈が跳ねた。
声に反応したのか近さに驚いたのか、どちらか分からなかったけど…。
欲しかったお茶は売り切れだし、ヘンな声も聴かれちゃうし、なにより、彼の言動を感知すれば逐一反応する自分が悔しくて、そんな風に思うこと自体あと僅かな時間の中でしか叶わないことが悲しくて…。
もうちゃんと考えて選ぶことが出来そうにないなら何が出て来ても良いと、掌を向こうに胸の前で広げた両手をボタンに近付ける。
「、」
「そうね…こういうこともあるわよ、ね。」
「やめ───」
その声が何を言おうとしたのか理解するより早く、さっきと同じ重い音が、ガコン。と響いた。
一呼吸置いて手塚くんの、肩で大きく息を落とした気配がして。
ゆるゆるとそちらを向くと、自動販売機を確かめるように見て苦笑する彼が映る。
「お前、コーヒーは苦手だろう…」
「どういうこと?」
声にしながら取り出し口に入れた手には、冷たくて小さい缶の感触。
弾かれるように再度彼を振り仰いだら、目を遣っていた自動販売機から私へ視線を移した手塚くんは、改めるように短く切った息を肩で落とした。
「こういう自動販売機には複数のボタンを同時に押した場合の
優先順位があるんだ。左上から設けてある収納番号の若い順
に出てくるようになっているらしい。
その優先順位からすると、いまお前が押した中では
ブラックコーヒーが出てくることになる。」
そんな優先順位があるなんて知らなければ、まるで手品を見せてもらったような気持ちになってちょっと驚いた。
けれどそれ以上に、彼の前でそれほど見せた訳でもない、コーヒーが苦手なことを覚えていてくれたのが嬉しかった。
「当り…。」
取り出し口から手を抜いて、小さな缶を彼の前に出して見せる。
冷えきったスチールはすぐに手から温かみを奪って、指先が微かに震えた。
でも、この缶が出て来たのはそんなに悪いことじゃない気がする。
すこし困ったような、それでもとても穏やかな表情の、こんな手塚くんも見せてくれたから。
「どうするんだ?それ。」
「飲む…」
「冷たいんだろう?」
「うん、冷たい…でも、飲む…。」
持って帰ったら家族の誰かが開けてしまうかも知れない。
それなら今、ちゃんと自分で飲みたかった。
伺うように私を覗き込んだ彼に小さく答えて公園の中へ目を遣ると、ちょうどベンチが映る。
そのまま目で彼を促し。
「座ってもいい?」
「ああ。」
覗き込まれた面映さを思い返しながら、車止めの柵を越えた。
まだ夕方の時刻でも暗さが夜と同じなら、足元の影はまわりに溶け込んで滲む。
背の高い灯がそれを和らげるように青白い光りを広げていた。
砂地を踏み締める彼の静かな足音が耳に優しくて泣きそうになったけど、手にした缶の冷たさで耐えられた。
座ったベンチの、ちょっと硬い感じにも助けられて。
「今日は時間、掛かっちゃったね。」
「大石が休みだったからな。」
「風邪、大丈夫かな…大石君。」
「熱だけだと言っていたが、二・三日休むかもしれない。」
「次に出て来た時、執行部の仕事を手伝わないと。」
「ああ、そうだな。」
タブを上げながら話す会話はいつもと変わらない。
ただ、何度も話した執行部内の話題も、今日はなんとなく物悲しい気がした。
きっと離れることを意識して、感傷的になってるんだと思う。
冷たいせいか、なかなか上げられないタブも爪を滑ってカツカツと何度も音を立てるし、なんだか今日はいろんな事がかなしい。
途切れた会話を意識しないよう、滑るタブにもう一度指を掛けて上げようとしたら、手元の視界にすっと、控えめな動きで手が映り込んだ。
「貸してみろ。」
眼鏡の奥の瞳を伏せ目がちに私の手元へ向けて、手塚くんはそっと手から缶を取る。
私の掌でやっと隠れる缶も、彼の手にはしっかり納まった。
長い指がタブに掛かったのを見詰めながら、思い返すのは彼の記憶。
その手がラケットを握っているトコロは誰よりも絵になるとか、生徒会室でペンを走らせているときのその指は結構能弁で、いろんな事を話してくれたとか。
全部大好きなのに、もうすぐ見れなくなっちゃう…。
開いた缶を差し出されて受け取れば微かに指が触れて、またトクンと脈は跳ねたけれど、それよりも感じる寂しさの方が大きかった。
「ありがとう。」
「いや、礼を言われる程のことじゃない。」
落ち着いた口調で返したその声も、あと何回聴けるのかな…────
ぽつりと、缶を持った手に何かが落ちて。
咄嗟に勢い良く缶を口元に運んだ。
鼻の奥の違和感と口の中を覆った救えない苦さが混ざった不快感に、しない方が良かったと後悔した時。
「少し待っていろ。」
幾らか強い印象を持った声が耳に入ってきた。
顔を大きく上げるのを躊躇った私の横で、すぐ空気は縦に、鋭利に動く。
視界の端に見る、ベンチを立った手塚くんの手は何も持っていなくて、そのまま入り口の方へ進んでいく。
目の下のあたりを指で軽く撫でながらその背中を視線で追えば、車止めの向こうに見えなくなった後、しばらくして自動販売機が取り出し口に缶を落とした音が響いた。
手塚くんも喉が渇いてたんだ…一言訊けば良かったわ…。
入り口の方から目を手元に戻し、まだたっぷりと残っているコーヒーの缶を見詰める。
飲むなんて言ったもののやっぱりこの苦さにはまだ馴染めない。
「口をつける前ならあげられたのに…」と呟いてから気付いた、近付く足音に顔を上げて。
すこし先に見える彼の姿は制服のせいでなんとなく輪郭がぼんやりして見えた。
でも、灯の下にいないと夜の色に吸い込まれそうな制服も、彼が着ているとなぜか様になる。
背が高いことや、歩き方に程よい緊張感があるからだと思う。
そんな手塚くんを見れば、どうしたってドキドキしてしまうけど───
「おかえりなさい。」
「ああ。」
戻って来た彼を仰いでにっこりと声にしたら、目の前にすっと缶が差し出された。
それはコーヒーの缶より少し大きいミルクティー。
「え…?」
「俺がそれをもらうからはこれを飲むといい。」
まだ立ったままの手塚くんは背を屈め、さっきと同じように私の手から小さな缶をそっと取る。
突然の事に状況を上手く飲み込めなくてぼぅっとしてしまったから、手の中が空になってはじめて意識の焦点が合って、缶を返してもらおうと慌てて手を伸した。
その手が勢いに任せて彼の手をしっかり握る形になっても気にしていられない。
「それ、冷たいし口つけちゃったし、私が勝手にやったことだし、
手塚くんがそれを飲む理由はないわ。」
「そうだな、冷たいし開いている。
でも、お前に泣かれるよりはずっと良い。
ほら、手も冷たくなっているだろう。」
その言葉の意味をどう理解すればいいんだろう…?
彼の手を握ったまま、私は固まった。
私のその手の上に手塚くんの空いている方の手が重なって。
「早くコーヒーも飲めるようになってくれ。」
そっとゆっくり、解いていった。
コーヒーが飲めなくて泣いたんじゃないことは内緒にしておこう。
話したらきっと、笑われちゃうから。