「これは?」
予約を入れてあるフレンチのグランメゾンへ出向くために服を選んでいたら、背中越しの声が伺う調子で訊いてきた。
クローゼットに伸していた手を止めて振り返り、ベッド脇で国光が手にしている服へ目を遣れば、それはリトルブラックドレス仕様の膝丈ワンピースで。
「ああ、それね…。」
タイトなスタイルはスタンダードだし、生地も黒のシルクタフタだから夜の装いに適う。
ドレスコードをきっちり引いたグランメゾンに行くならこれぐらいで丁度いいと思って出したけれど、改めて見た背中の開きの大きさが気になり、やっぱり仕舞うつもりでベットに置いたものだった。
「こういう感じ、好きだな。に合うと思う。」
私の元まで来た彼は珍しくそんな事を、希望めいた口調で話す。
普段、私の着る物にはほとんど口を挟まない彼が好きだと言うなら、着ていきたいとは思う。思うけど…。
「んー…」
一度気になった露出度の高さのせいで、服に着られる気がして考えてしまう。
「ダメか?」
色好い返事の出来ない私を覗き込む声には、少し幼気な気配。
眼鏡の奥の瞳を凝らした、伺うような強請るような表情と相俟って、余計にそう感じられた。
そして、国光が年下の顔を見せるこんな瞬間、私はひっそりと愉悦を抱く。
同時に無条件で弱い。
いつも落ち着いた印象の彼はともすれば年上に思えるし、当然と言えば当然。
「そうね…、背中の開きがちょっと大きいけど…」
ただ、それだけで気掛かりを飛ばしてしまえるなんて、あまり言えたことじゃない。
今日が特別な日だからではなく、たまに見せてくれるこういう表情にはいつだってつい応えたくなってしまうんだって、呆れがちなことも。
それでも、あなたがそんな顔を見せるのは、私だけだから。
「それにしましょうか。」
微かに目元を緩めてワンピースを差し出す彼に微笑み返し、受け取った。
彼に一旦寝室を出てもらって着替えたワンピースは、背中の開き具合のせいか服の方が主張して、姿見に映して確かめた全体の印象より目を引く気がする。
果たして本当に着られているからなのか、ただ気にしているだけなのか、どちらかは判らないけど。
でもまぁ、この上に何か着れば多分大丈夫でしょう。と、上に何を合わせるか考え。
無難なのは丈の長いパシュミナあたり…?
クローゼットから取り出したそれを肩に掛けてみて、姿見に映った恰好があまりに勝負服なことに思わず苦笑してしまったその時、ドアをノックする音が小さく響いた。
「どうぞ。」と声にして、すぐドアが開く。
「着替えは終ったか?」
近付く気配は至って静かでいつも通り。
今日の主役であっても落ち着いた空気を崩す気はないらしい。
「一応はね。
ただ、勝負服過ぎて服に着られてるような気がするんだけど…。」
パシュミナを肩に掛けた、姿見に映る自分へ目を遣ったまま答え、そこに映り込む背中越しの彼を鏡から見遣る。
きちんとプレスしたシャツの、張りを持った白が眩しい。
「いや、そんなことはないと思うが。違和感もないし、似合ってる。」
返って来た声のあと、カフスを付けた左腕がゆったりと腰に回った。
そのままそちらを緩く仰ぎ、「そう?」と目で訊けば、国光も微かに細めた目で「ああ。」と答える。
「あとは髪と胸元か?」
「ええ。どちらもまだ決めてないけど。」
「髪は上げてくれ。」
する…と髪を束ねる手は、優しげでいて酷く確信的。
「夜会巻き?」
「そう。」
そして強気でエゴイスティックで、決して私を離してはくれない───
「国光、」
腰にあった手がパシュミナをそっとずらし、その指先に窘める声を向けてみたけれど、きっと何の意味も成さないだろう。
案の定止める気配を見せない彼は、返事の代わりのように唇を項へ落とした。
「好きなんだ、の背中。」
腰を抱き直す腕と、項を辿って背中へ滑っていく唇と。
殊勝にもそんなことを言ってみせたその声だって、本当はこの上なく本能的だと、もう十分知っている。
それなら、伝う唇に沿ってじわりと滲む熱をこの肌の内に隠し切ることなんて──囚われた見えない手に抗うなんて──出来るも筈ない。
「背中だけ…?」
首を小さくそちらへ回し、せめてフリだけでも余裕有り気に訊くと、背中に留まった唇が緩く動き。
「今更何を…。」
肩に程近い背中の布ギリギリへと移る、彼という甘い罠。
それに自ら掛かろうが、言わせたい一心で口を開くのは溺れている証拠。
「“何を”…?」
「わかっているのに訊くんだな。」
私が声を繋げるより早く、国光は肌をきつく吸い上げた。
───なんてひと…
今の私の言葉にそれなりの意図があったことをちゃんと見透かしている、そんな痕の付け方。
思わず息を飲んだ後、見計らったように彼の顔が上がる。
不敵がちな笑みを浮かべた口元は、まるで「お前の手管は全て知っている」とでも言っているよう。
「国光…」
困り顔さながらで言いかけた私の唇をその唇が掠め取って、耳まで。
「全部愛してる、。」
普段は濁したがる、聴きたかった言葉をここで囁くなんて、あまりに狡い。
それこそ彼の思惑通りに欲しがってしまいそうで、唇を緩く咬んだ。
後を追って「は?」と訊く声はやっぱりとても強気で、私の意志を全て奪い取っていく。
「私からは帰って来てから…。」
「じゃあ、プレゼントの一つとして取っておこうか。
存分に聞かせてもらうぞ。」
身体を緩くそちらに向けて上目遣いで答えれば、それも全部彼の思い通りだと、ニヤリと薄く上がった口の端に知る。
結局、進んで罠へと掛かってしまったけれど、それさえも愉悦でしか無くて。
ゆるりと肩へ手を置き、悔しい心持ちを持て余すように、きっちりタイを結んだその喉元に緩く歯を立てた。
「上等だ。泣かせてやる。」
隙間を埋めるように腰を抱いた彼は、声を低く囁いて。
ほくそ笑む眼鏡の奥の瞳。
何かを目論んだ妖しく鋭い眼差しに、否応なく呼応してゾクリと震える私の背中。
「そう簡単には堕ちない。」
「そのセリフを言ったこと、後悔するなよ。」
いいえ、もうすっかり堕ちている。
後悔だって、どれだけしただろう?
年下でいて年上のような、憎らしいほど壮麗な男に出会ってしまったんだから。
その瞳に飲まれないよう、返事の代わりにうっすらと挑発的な視線を向け、何も残っていない喉元を親指で拭う。
「せっかくのバースデイ・ディナーに間に合わなくなるわ。
髪を上げるの、手伝って?」
私にだけ痕が付いたのは、ちょっぴり悔しい。
悔しいけれど、嬉しい。
そんな矛盾もあなただから特別な意味を持つ。
頬を寄せて答えに代えた彼のその後のキスを、甘い予感と共に受け止めた。