苺、ひとつぶ
まだ雲が厚く棚引く空は、朝なのにすこし寂しい。
今日は雪が降っているから余計そう感じるのかも知れない。
冬の空が寂しいのか、雪が降っているから寂しいのか分からないけれど、こんな日は尚更早くあなたに会いたくて。
駅から学校までの、濡れて光る鋪道を小走りに急ぐ。
吐いた息が白く弾むのを自分の鼓動のように思いながら小幅で走っていると、視界に良く知るアッシュグレーの髪が飛び込んで来た。
間違えるはずのないその髪の色は、クラスメイトであり、カレシの弦一郎と同じテニス部にいる仁王君。
通り過ぎる時おはようと声を掛けて、眠そうに目をしぱしぱさせる彼をくすりと笑ったら。
「、前!」
「え?あっ!」
耳をつんざく急ブレーキの音と共に鋪道に体が投げ出され、前から来た自転車と見事にぶつかってしまった。
一瞬何が起こったのか分からず、後ろ手をついたしりもち状態でしばし固まる。
「すみません!大丈夫ですか!?」
「大丈夫か?ケガは?」
「大丈夫です。
仁王君、ごめんね。大丈夫。」
気遣う言葉を掛けてもらってようやく恥ずかしさに襲われ、体と一緒に放り投げてしまったカバンやらなにやらを取って急いで立ち上がり、制服を払いながら声にする。
上手くハンドルが切れなかったらしい自転車の人はひたすら謝っていたけど、こちらも前を見ずに急いでいたからこの人だけが悪いんじゃない。
大丈夫と何回口にしたか分からないほどしっかりと無事なことを伝えてその場を後にした。
「お前さんはなんっちゅうか、危なっかしいのぉ。
真田が傍におきたがるんも分かる気がするわ。」
結局仁王君と一緒に学校へ向かう形になって、気付けば雪は止んでいて。
「そんなことないと思うけど…
そりゃね、そそっかしいところもあるよ?
でも、ちゃんとしてるところもあるから。」
「自覚があるのかないのか分からん微妙な言い方じゃな。
ま、ぶつかった時の、あの“目ぱちくり”は笑えたがの。」
「からかわないでよー。結構痛かったんだから。」
雨に変われなかった雪のあとがただてらてらと、鈍い太陽の光を弾いて光る中、制服のポケットに手を突っ込んで笑う仁王君を見遣る。
兎角私や弦一郎を揶揄したがる仁王君は私と彼とのことを良く知っていて、私達の会話には必ずと言っていいほど弦一郎が出てくるし、弦一郎との会話には仁王君が出てくることが多い。
そういう意味で言えば、良き相談相手であり良き友人の彼。
「あ、そうだ、仁王君。」
ふと、仁王君にもチョコを持って来たと思い出して、カバンに手を入れた。
あれ…?
箱…
探ったカバンの中に、整っていたはずの箱が潰れている感触を覚えて咄嗟に取り出す。
「!!」
「どうした?…って、ああ…」
取り出したその箱は隅が大きく凹み、哀れなまでに形を変えていた。
どうやらさっきぶつかった時に潰してしまったらしい。
しかもそれは選りに選って、弦一郎のために用意したミートパイの箱だった。
どうして…。
昨日頑張って作ったのに…。
「泣くに泣けないわ…。」
呟いた声が萎れてしまってもこういう状態じゃ仕方ないなんて自分で思う程、箱は悲惨に凹んでいる。
「それ、真田の、か?」
心配そうにこちらを伺う仁王君の視線にこくりと小さく頷いて返しても、その声はなんだかとても遠かった。
どこに耳がついているのか分からない感じ。
なんてツイてないんだろう…。
項垂れてしょんぼりと箱を握った横で仁王君が息を詰める。
「ツイとらんのぅ。」
「ほんと…取り敢えず、学校に行ってから考える…。」
頭にぽんと手を置いた仁王君にもう一度こくりと頷き、ほぅっと小さな溜息をついた。
教室に行って真っ先にしたのは、今日の授業の教科書やノートを出すことよりさっき潰してしまった箱の中身を確かめること。
ラッピングを綺麗に解いて恐る恐る箱を開け、注意深く取り出す。
「やっぱり…。」
万が一でも無事だったらと思っていた期待は取り出したパイと同じく微塵になった。
「それどうしたの?」
「うん…潰れちゃった…みたい。」
親友の祥子に覗き込まれて答えた視線の先には潰れて哀れな姿のミートパイ。
「ひょっとして真田君用のバレンタインプレゼント?」
「そう…。
朝、自転車にぶつかって、潰しちゃったの。」
「うわー、それは災難。」
本当に悲壮な声を上げた祥子をやり場のない恨めしさで見遣って、溜息を落とす。
「渡せないな…これじゃ。」
無意識に零した自分の言葉に昨日の苦労が水の泡になったことを実感した瞬間はすぐに、教室に入って来た先生の声で掻き消された。
午前中いっぱいどうしようか考えて。授業の間も考えて。
それでも答えは出なかった。
祥子や他の友達に「お昼に買って来たら?」と言われたけれど、付き合い出してから既成のものしかあげていなかった今まで、今年はどうしても手作りにしたくて慣れないパイ作りに挑戦したから。
オーブンで火傷だってしちゃったし、一度失敗して真っ黒にしちゃったし。
一生懸命作ったもの…。
他の物で代用する気にはなれなかった。
結局いつも通り皆と一緒にお昼を取ることにして、お弁当と一緒に、もう渡せなくなったミートパイを片付けてもらおうと机に出す。
このまま持って帰るなんてことだけはしたくなかったから。
私の友人はこういう物に目がない子たちばかりで、箸やフォークが何回も伸びるのを有り難くも複雑な心境で眺めていたら、あっと言う間にアルミのパイ皿が顔を覗かせた。
「これイケるー。真田君きっと悔しがるよ。」
「ホント美味しい。残り、全部貰ってもいい?」
「ありがとう。キレイにしちゃって?」
バラバラになったパイを頬張って口々に賛辞をくれるクラスメートに、泣き笑いしたい心境でお礼を返す。
目の前で崩されていくパイは美味しいと誉めてもらってきっと喜んでいる。
でも、こんなことを言ったら贅沢だけど。
意図したことと違う形で誉められて、作った私の嬉しさは半減…。
分かっていてもなんとなく寂しくて、パイ皿に残っていたひと欠片が取り去られていくのを見なくても済むように手元のお弁当に目を落とした。
お弁当には今年はじめての苺が三つ。
つぷ…とフォークで取って一つ口にする。
ふわりと広がる甘酸っぱい味は今の自分の心境の複雑さにどことなく近いようで。
もう一つ口に運んでゆっくりと確かめる。
(やっぱり違うわ…こんなに甘くないもの。)
甘さばかりが口の中で増した苺に胸中呟きながらも、最後の一つをフォークに刺した時。
「!」
大きな声で名前を呼ばれた。
そんな大きな声で私を呼ぶ人は決まっている。
真っ直ぐ前を向いたまま、小さく息を落としてから体を捩らせて出入り口を見ると、やっぱりそこには弦一郎が。
振り返った私を見つけた彼は、構わず教室にズンズンと入って来る。
私の元へ躊躇いもなく足を進めた彼が一瞬ちらりと空になったパイ皿に目を遣ったのを少し苦い気持ちで見て、どうしたの?と口にした。
「どうもこうもあるか。」
苺の刺さったフォークを持ったまま、手を掴まれて椅子から引き上げられる。
「え、なにっ!?」
「来いっ!」
「ちょっ、弦一郎、
手、火傷してるからそんなにキツく握らないで。」
ぎゅっと掴まれた手がひりりと痛んで、どこかへ連れて行こうとする彼に手の痛みを訴えて、思った。
しまった、と。
私の声にぴたりと足を止めた弦一郎は、こちらをゆるりと見遣る。
視線が痛い…と思った直後、実直な声が張りを持って耳に届いた。
「火傷までしおって。」
口調はいつも通り厳しいものだったけれど、見下ろすように向けた彼の眼差しがふっと弱気に緩んで。
「違うの、これは…」
「とにかく来い。」
一瞬ドキリとして怯んだ隙に、手首を掴み直されて引っ張られた。
そのまま教室を出て、どこかを目指し迷わず歩く弦一郎。
どこに行くのか聞いても答えてくれない彼に、仕方なく付いていく。
右手にフォークを持ったまま。
途中、廊下で仁王君とすれ違って、ニヤリと笑った彼にようやく事態を把握した。
仁王君が朝のことを弦一郎に話したんだと。
だから弦一郎はこんなに怒っているんだと。
以前から、注意力散漫だと良く怒られてるから…。
(きっと部室あたりで大目玉もらっちゃうんだわ…。)
仁王君に悪気はなかったんだろうけど、もし泣いちゃったら小言の一つでも言わなきゃやってられない…。
そんな気持ちで弦一郎の後ろ姿をぼんやり見詰めた。
そしてやっぱり、着いた先はテニス部の部室だった。
「そこに座れ。」
入ってすぐ、弦一郎は隅に置いてある椅子を目で示し、ロッカーを開けてガサガサと何かを探し始めた。
取り敢えずちょこんと座って彼の次の言葉と行動を待つ。
待っている間に浮かぶのは良くないことばかり。
怒られるんだと思ったら今日は本当に散々な日になりそうで、だんだん悲しくなって来る。
精一杯頑張って作ったパイはあげられなかったし、その上怒られるなんて…。
「弦一郎…。」
背中を向けたまま、まだ何か探している彼に伺うようにちいさく声を掛けた。と同時に、弦一郎がふいっとこちらを向く。
「これならば良いだろう。」
手にした何かを確認してから顔を上げて、他の椅子を引いて私の前に座る彼。
「手を出せ。」
その手にしているのは小さなチューブで、何かしら手当をしてくれようとしているのは間違えない。
それは嬉しいんだけど…
「あの、ごめんなさい…。
でもわざとじゃないの、偶然ぶつかっちゃっただけなの。
パイはダメにしちゃったけど…」
「謝らなければならないことをしたと思っているのか?」
「……。」
「確かに心配はさせられたからな。」
ふっ、と自嘲気味に笑った彼に手を取られ、苺がフォークごとするりと手から抜かれる。
ことりとフォークを机に置いた彼の瞳に、はっきりと甘い色が浮かんだ。
「箱を潰して萎れられたり火傷をこしらえるぐらいなら、この苺で充分だ。」
厳しさを緩めた表情で、弦一郎は静かに苺を口に運ぶ。そしてそっと、手にした塗り薬を私の手の火傷につけてくれた。
その言葉には、少しの心配を含んだ優しい空気感があって、なんだか胸がジンとしてしまう。
「何かある毎に火傷や怪我をされてはこちらが持たん。」
手を休めず小さく言った言葉と言った後で照れくさそうに口元に手をやった弦一郎が愛おしくなって、顔を覗き込んでじっと見詰めてみる。
「なんだ?」
「ううん、なんでもない。」
首を横に振って返しても、きっとわかったと思う。
私はこんなにも幸せだ、って。
「好きよ。」
小さく言うと、不意に手を離した弦一郎は、ガタッと大きな音をさせて椅子から立ち上がった。
そのままロッカーに塗り薬をしまって部室を出ようとする。
慌てて立ち上がり駆け寄ってきゅっと腕を掴むと、微かにこちらへ顔を向けて。
「大切に思っている者が自分のために難にあうのは堪える。」
それはまるで独り言のように。
背を向けたまま、けれど伝わる暖かい気持ち。
その言葉だけで幸せになれる私はかなり安上がりだと思う。
でもなかなか手に入らなくて苦労しているから。
本当にそれだけで充分だと、さっき弦一郎が言った「この苺で充分だ」の意味を噛み締めた。
「ありがとう。」
こんどはハッキリと、広い背中に触れて、返す。
嘘じゃなく、偽りなく、その言葉は何よりも私を幸せにしてくれる一番のカギ。
これから先、もっと幸せになれるように、沢山のカギを貴方から貰おう。