Kinari

よろこび、
それは心の底からの苦悩よりも一層深い





放課後の図書室は、凛としていてとても清閑。
夕暮れも迫った冬の空はあっという間に暗くなってしまうけれど、なんだか外界と切り離されているように感じられて、用もないのに来てしまう。
心なしか空気も澄んでいる気がするし、居心地の良さは格別で。
でも本当は、別の理由がある。

ここには時々、柳くんが来るから─────

「くる、かな…。」

机の上に広げた、来たとき適当に選んだ本もそのままに、出入り口へ目を遣って呟く。
今日は一斉委員会があって、珍しく部活も全て休みになった。
それならもしかして…と思って来てみたけれど、柳くんはまだいない。

でもなんとなく、会えるような気がして。
もし会えたら、今日こそ伝えようと、そんなことを思って。

「こないかな…」

私一人の広い室内はシン…として空気も張りを持ち、小さな声も取り上げるように感じられる。当たり前に何も動かない。ただその言葉だけ、中途半端に宙に浮かんで消えていく。
だから少し、不安になった。

ここに来て、どれだけ経っただろう?
机の端、手元にほど近いところへ置いた携帯を取って確かめれば、時刻は16時をすこし過ぎたところ。
もっと進んでいるかと思ったのに、まだどれだけも経っていない。こんな風に少しの時間も長く感じるのは、やっぱり緊張しているせいだと思う。
それならこの緊張を解そうと本に目を落として、出入り口の方からカラカラと、引き戸を滑らせる軽い音が響いた。
奥まった閲覧コーナーにいると、すぐに誰か確かめることはできない。でも反射的にそちらを見る。
微かに聴こえる足音はまっすぐこちらへ向かっていて、柳くんだったら…と息を潜めた。
直後、足音が止まって。

「やっぱりここだった。」

本棚の向こうから私を捉えて微笑んだのは、同じクラスの幸村くん。こちら側に踏み込んだ足も音を静かに、穏やかな動きで歩いてくる。

「うん、ここが一番落ち着くから。」

柳くんじゃなくてほっとするのと、軽く残念に思うのと、今はどちらの心境であっても落ち着かない。
距離を近くする幸村くんに、軽く微笑んで返す。それを受けた彼は大きく口角を上げて。

「柳はまだ生徒会室にいたよ。」

私がなぜここにいるか、その理由を改めて示すように、柳くんの名前を出した。
幸村くんは、私の気持ちを知っている。
彼も同じクラスなら、私の言動を見て取って推し量るのは容易かったらしい。

「そう、生徒会…」
「今日は全部活が休みだから人も揃う。長く掛かるかも知れない。」

私の向かえの椅子を引いてゆったりと座った幸村くんは、その挙動と同じように穏やかな口調で話す。
あまり抑揚のない、でも綺麗な声と話し方。
彼のこういうところが実は結構好きだったりすれば、自然と気持ちも解けていく。
勿論、恋愛要素という意味ではなくて好感度の方で。それなら同じクラスになった彼との距離を近くするのに、そう時間は掛からなかった。だからこそ、気付かれたんだけど。

「そうよね、滅多に休まないテニス部が休みだもんね。」
「一斉委員会でもなければ、休みなんて単語は存在しないに等しいからね、うちの部は。」

苦笑まじりに皮肉めいた言い回しをした彼の目が、私の手元で留まって。

「それ、何を読んでるんだ?」

開いたままの本をじっと見詰める目は、まるでそちらから文節を追いそうに集中して、ちょっと真剣。
私には難しいと思ったこの本の作者とタイトルを言おうとして、先に幸村くん唇が動いた。

「ニーチェ…?」
「えっ、わかるの?」
「『ツァラトゥストラはかく語りき』だね。」

当たったことと上下を逆に読んだらしいことと、併せて驚いて目を見張る。それが可笑しかったのか、幸村くんはごく小さく息を詰めて笑い、その右の人差し指を私の手元へ伸ばしてページの上に横書きされているタイトルを指した。

「そんなに驚くことじゃないよ。ページの柱を見ただけだから。」
「あー、これ、柱っていうんだ?」
「そう。柳に教えてもらった。」

柳くんの名前を聴けば、それだけで心臓は走り出しそうで、ただこくこくと頷く。こんな反応しかできない自分が恨めしい。
何か軽い話ができないか考えて─────

「ねえ、。いつ柳を好きだと気付いたんだ?」

突拍子もなく、そしてかなり大胆に、直球な問いが耳に飛び込んで来た。

「え?」

再度驚いて声も裏返りそうに、見張った目で真っ直ぐ前を見る。けれど幸村くんの大きな瞳とぶつかって、気恥ずかしさと照れからすぐに視線を下へ落とした。
穏やかな表情で問う彼の瞳は、反対に痛いぐらい鋭い。いろいろと、どうしよう。

「どう答えたらいいのか…」
「はっきり覚えていない?」

伺う調子をより強く、その声は私を覗き込んで。だから自然とまた顔が上がる。

「ううん、ちゃんと覚えてるよ。」
「それは?なにか切っ掛けがあったんだろう?」
「…うん、あった。」

訊かれたことより質問の意図より、その“切っ掛け”を思い出せば胸はジンとして、思考を全部放り出してしまいそうになる。
どれだけ好きなんだろう?と、自分で思わずにいられない。もちろん、半ば呆れがちに。
そしてしっかりあの時に引き戻される、恋心。

「…海原祭の準備で、」

自然と唇が動き始めていた。
あれは文化祭の海原祭の準備中のこと。柳くんと私は一緒の班になった。買い出し班で、買い出しする物も沢山あったから、班の中でまた人を分けて。そこでも柳くんと一緒になったんだ。

「買い出し班、リストアップされたものがとても多かったでしょう?」
「ああ、そうだったね。みんな何回も出ていた。も柳と三往復ぐらしたんだっけ?」
「そう、三回行って…。その最後の三回目の時に、通り雨に降られたの。」

思い出しながら話す私の視線は幸村くんから外れていて、でも視界の端に彼が頷いて返したのを捉え、少しほっとする。
聞いてもらっているからなのか、続きを話せるからなのか、どちらかは分からないけど。

「バケツを引っくり返したみたいな…って、ああいう事を言うんだと思う。一気に来て、ザーッッと。雨で前が見えなかったぐらい。だから柳くんも私もずぶ濡れになっちゃって。」

あの雨は通り雨なんて軽いものではく、本物のスコールのように激しかった。
制服も夏服に変わったばかりの、薄着にまだあまり慣れていない頃。だから少し寒いぐらいで。

「先ずはどこかで雨を凌ごうと、近くにあったコーヒーショップに入ったの。同じように雨宿りで入った人も多かったみたい、店内はざわついてた。」

店内の喧噪を想起すれば、それだけで胸は切なく鳴く。

「取り敢えず何か頼もうということになって、柳くんはコーヒー、私はカフェラテにしたんだけど、座る席がなくて…」

その時また、引き戸を引く微かな音が聞こえた…と言ってもそれは本当に小さくて、気がした、と言った方が適切だと思う。
それを証拠に私が小さく出入り口の方を見ても、幸村くんは伺う様子の瞳を私に向けるだけ。

「どうした?」
「今、戸を開ける音がしたように感じたんだけど…」
「俺には聞こえなかったな。」
「そう…。」
「それで、どうなった?」

続きを促されて、こくりと首を上下させた。
もしかしたら、誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない。この恋のはじまりを。

「出入り口の近くじゃ他のお客さんの通行の邪魔になっちゃうし、買い出しの荷物もあったし、店内の奥へ移動しようとして、カップを持った方の腕が通りすがりの人の腕と当たったの。」

胸が苦しくて、少し話すごとに小さなため息が零れる。

「軽く当たっただけだったからカップも飲み物も大丈夫で、お互いちゃんと謝って何も問題なかった。でも、当たったのが肘に近いところだったせいか、ジンと疼くように響いて。」

またひとつ頷いて返す幸村くんの先に、あの時の柳くんの濡れた髪や制服が浮かんで、もっと苦しくなってしまう。
少しでも楽になりたくて、胸を手で押さえがちに、息を整えた。幸村くんはそんな様子を見守ってくれている。

「柳くん、そういうことにちゃんと気付いてくれてた。壁側に落ち着いた後、ジンとしたままの腕にそっと触れて『大丈夫だ、心配ない。』って気遣ってくれたの。」

今、声にしたことで、改めて掲げた柳くんという人となりを、もっと好きになっていく。

「それだけでもドキドキしてたのに、私のカフェラテがどんな味かみてみたいって、お互いにカップを交換して。」

もうダメ、泣いてしまいそう。
それぐらい綺麗で大切な時間だったんだと、こうやって話して思い至った。

「泣けるほどの恋、か。俺もしたいよ、そういう恋。」

優しい、けれど少し寂しげな声の調子に顔を上げる。と、幸村くんは柔らかく微笑んで。

「さて、と。じゃあ俺は行くよ。」

私が言葉を継ぐより早く、席を立って歩き出した。そして耳を疑う一言を。

「あとは柳、頼んだ。」

────え…?いま、なんて…?

弾かれるように顔を向けた本棚の端、人の動く気配がして現れたのは、間違えなく柳くん。
こちらへ歩いてくる、その長身の凛とした姿に、視界は歪んでしまいそうになる。
幸村くんは柳くんとすれ違い様に、柳くんの肩を一度叩いた。それがどんな意味を持つのか考える前に、「先ずは謝らなければならないな。」と、恋して止まない声がしっとりと耳に届く。

「立ち聞きをして、すまなかった。」

机の脇まで来た彼を仰ぐと、そっとハンカチが差し出されて。

「声を掛けるタイミングを逃してしまってな。」

話を聞かれたことと私の気持ちがもう彼に伝わったこととで混乱して、いろんなことをちゃんと考えられない。
会えたことは嬉しくても、おずおずと受け取ったハンカチを手に、下を向いた。

、」

私を呼ぶ、耳に響いた声は優しくて甘い。
けれど、急に怖くなった。

やっぱり無理…

私を呼ぶ声もハンカチを渡してくれた指も、全部好きなのに。
もう聞かれてしまったなら、あとはちゃんと伝えるだけなのに、自分の気持ちを言い切ってしまうことが。
それは純粋に、壊れてしまったらどうしようという不安からだけど、もっと怖いのはこれから先、この気持ちがどう変わっていくかということ。

どうしたらいいだろう?
どう繋いだらいいだろう?
柳くんを待たせていると分かっていても、繋がる言葉が見つからない。
顔を上げられない。

「よろこび、それは心の底からの苦悩よりも一層深い」

迷う私の頭の上で、凛々しい声がまた、優しく響いた。少し甘い調子に、思わず柳くんを振り仰ぐ。

「その本、『ツァラトゥストラ』に入っている『深夜の鐘の歌』の一遍だ。」

声が示した意図とニーチェの繋がりがわからず彼を見詰めたら、その口元がまたうっすらと微笑んだ。

「たった一つでも本当に喜ばしいことがあれば、それが全てを変えてくれる。と、俺は解釈している。」

まるで心を見透かした言葉選びに声もなくて、ただ柳くんをじっと見る。彼には全部、わかっているんだ。私の気持ちも、なぜ下を向いたのかも。

「柳、くん、」
、その唇で、声で、ちゃんと聴かせてくれ。」

しっかりと瞳を開き、今度ははっきり微笑んだ柳くんは、そっと私の肩に手を置いて。
ゆるやかに結ばれた口元が、何も心配しなくていいと言っているようで泣きそうになる。なんだか包んでもらったような気持ちになれば、今度こそ伝えようと唇を動かした。

「柳くんが好き、大好き」

全部言い切る前に声は潤んで、もう本当に泣いてしまいそうになったけれど、肩に置かれた手の大きさでなんとか耐えられた。

「ありがとう、大切にしよう。その言葉もおまえも。」

聴きたかった言葉を聴いた耳は、なんだかジンとして熱を持ったよう。
だからつい、「うそ…」なんて言ってしまった。それを聞いた柳くんは、声を詰めて小さく笑う。

「俺は仁王じゃないからな。嘘はうまくないし吐けない。」

一瞬にしてほどけた緊張も混乱も、もう欠片だって残っていない。今あるのは『よろこび』だけ。偶然、適当に選んだ本が、今日の私にとても大切な一言を投げてくれたことを感謝したいと思った。

────ありがとう。





見回りの先生が鍵を閉めにきて、急いで支度をして学校を出た時には、もうすっかり夜になっていた。
帰り道、用意したシフォンケーキを渡していなかったことに気付いたけれど駅までの道のりは短くて、渡せないまま駅について。
改札を抜ける前に、やっと声にする。

「柳くん、ごめんね。ケーキ、さっき渡せなくて。」

柳くんを呼んだ声は、もう震えていない。今ならちゃんと微笑んで渡せると、頬をゆるめて柳くんを振り仰いだ。その視界には首を微かに傾けた彼の、ちょっと困った様子が。

「柳、くん?」
「名前を、」

少し歯切れの悪い言い方は何か含んでいるよう。
「名前?」と訊いて同時に、その顔がまっすぐこちらへ向けられて。

「名前を呼んでもいいか?」

それはとても柳くんらしい一言だった。
彼のことだから、ちゃんと確かめてからでないと呼べない、とかきっと言うんだろう。
そんな真っ直ぐなところもやっぱり好きなら、首を一度、縦に振る。
駄目な訳、ないでしょう?

「私も、蓮二くんって呼んでいい?」

いろんなことが嬉しくて、喜びに繋がっていて、にっこり微笑んだまま訊いた。

「ああ、。もちろんだ。」

そっと箱を受け取った蓮二くんの、微かにはにかんだ笑顔がまぶしかった。

お互いに大切な日になった今日を、私たちはきっとずっと忘れない。



a postscript
このお話は、柳の聡明さと優しさを出したいと思い、多分彼なら読んでいるだろうニーチェを引き合いに出して背中を押してくれるという状況を作ってみたのですが、何やら単に小難しいだけの話になってしまいました。
私自身、実は読んだことのないツァラトゥストラも、彼はこんな解釈をするんじゃないかと、勝手に捏造した結果、大仰な印象になり、もう穴を掘って隠れようかという有様です。リハビリ的に書いたため、柳より幸村の方が出しゃばっていて、まだまだ未熟さを感じます…。
そんな本作は、“cocu*”というミュージシャンの『MOON BELIEVER』をずっと掛けて書き込みました。随分助けてもらったということで、ありがとうを。
special Thanx:cocu*, Nietzsche and you.