本当に、もう本当に辞めてやる。
そう思ったのは今日の午後。いや、それはずっと前から心にあったのだから、“決めたのは”と言うべきだろう。
毎日胸が重くて苛立たしくて、それでも断ち切れないしがらみに辞める決意を固められないでいたけど、もう無理、もう限界。
今日のあの人の叱責口調やろくろく話も聞かずに「言い訳はいい」と言った声を思い出すだけで悔しくて泣けてくる。しかもそういうのに限って頭を離れてくれない。手に握り締めたティッシュもすっかり固く小さくなって、これ以上何も受け入れられないと言ってる。
まるで花の金曜の夜に部屋の隅っこで背中を丸めた今の私だ…。
なんだか遣り切れなくなって、縮こまったティッシュをベッド脇のくず籠へ投げやりに投げた。
中に入らなかったそれは音もなく床へ落ち、不貞腐れたようにころんと転がる。そんなトコロまで真似しなくてもいいのに。
鼻をグズつかせながらのそりと前へ背と手を伸していい加減に拾い上げ、ちょうどその時、唸るような音が不意を突いた。
「─っ、」
不意に耳へ飛び込んできた、携帯の振動だと思う、音に驚いて、一度手にしたティッシュをぽろっと床へ落とした。
拾い直すより先に、テーブルの上で転がっているそれへ目を遣れば、やっぱり着信のランプが光っている。
こんな時に掛けてくるなんて、誰か分らないけどタイミングが悪いったらない。
気乗りしない手で携帯を取り、ディスプレイを開ける。と、そこには“オシタリユーシ”の文字。
漢字を呼び出しても一発で出てきた試しのない苗字及び名前は、後から登録し直そうと思いつつ携番の交換をした時のまま。
未だに変えていないことに深い意味はなかったりするそのカタカナを見て、丸い眼鏡と猫背がちな長身と、ちょっと長めの髪を思い出す。
夜もこれからのこんな時間に侑士が電話してくるなんて何だろう?
「…、もしもし、」
『もしもし、?』
グスグスした声を隠しがちに取った電話の向こう、聴こえてきたのはいやらしいぐらいに甘い声。
侑士のこの、無駄に色気立った声は中学の頃から少しも変わっていない。
ルックスの甘さも声に負けじと劣らず、きっと誰でも一度聴いただけで声と人物をセットにして覚えられると思う。
「うん、どうしたの…?」
『ああ、繋がって良かった。
いや、大したことやないんやけど…て、ある意味大したことか。』
しっとりした喋り方が余計に艶っぽさを際立たせる。
そんなところもずっと変わらない侑士とは、中学から大学までずっと同じ学校だった、親友というか悪友というか、まぁそんな感じの友人で。
「…何、それ。」
どんな会話であっても突っ込むトコロはしっかり突っ込み、切り返すトコロできっぱり切り返す私たちの間に恋愛感情なんてものはない。お互い恋人がいた時期も当然あって、それでもなんとなく続いた、言ってみれば単なる腐れ縁だ。
『「何、それ。」て…。」
ただ、時々響きあうことは、ある。
『相変わらずつれんへんなぁ。お互いしばらく声聴いてなかったんやで?
もうちょっと優しぃに話したろとか思わんの?』
「思わない。」
『…お前なぁ』
畳み掛けるように答えると、情けないような哀しいような、間延びした声が続いた。
確かに、侑士と話すのも三ヶ月ぶりぐらい。
彼は卒業・就職と同時に地元の京都へ戻ったから、電話も一・二ヶ月に一度ぐらいの今を思うと、確かに酷い物言いだと思う。
でも、今回は仕方ないとしか言い様がない。
鼻のグスグスは治まりつつあるけど、心情的に早く切りたいんだもん…。
今、誰かと話したら、きっとグチを零すから…。
手短に終らせるために何の用か訊こうと口を開きかけ、『ま、しゃあないか。』と、甘ったるい声に遮られた。
『が泣くなんてよっぽどのことやもんな。俺の話よりそっちの方が先や。何があったん?』
電話の向こうからさらりと容易く、酷く優し気に、弱った私の心を撫でる侑士の声。
その声に、一度元に戻りかけた涙腺がまた緩んでしまう。
「…、」
『あまり言いたがらんのはいつものことやけど。
言わんと辛くなる一方やで?』
まるで迷子を宥めるように諭す柔らかい口調はあの時と同じ。
就職してしばらく経った頃、今と同じような状況があった。
どうにか慣れた職場で旧態依然とした体質にぶち当たった時。ひとりで手足をバタバタさせて、でもどうすることもできなくて。その理不尽さに初めて泣いたあの夜も、掛かけてきた電話の向こうで真っ先に私の変調を感じ取ってくれた。
「…う、ん……、」
『仕事のことか?』
どうしてこの人はいつも、こんなにタイミング良く私を救うんだろう?
どうして何も言わなくても分ってくれるんだろう?
「…っく、…っ、」
思わず声が潤む。
押し殺した涙声のみっともなさも忘れてしまうぐらい、全部が緩んで解けていく。
『あー、しんどかったんやな。泣いてええよ。』
散々泣いたのにまだ落ちる涙の理由は、仕事のことかと訊かれて辛かった色々を思い出した以上に、本当はこんな言葉が欲しくて、誰かに聞いて欲しくて…。
「…ゆ、し…、…っく、」
『うん、ちゃんと聞いたるから。全部吐き出しぃ?』
どうやら、床に落としたままのティッシュは暫く放置されることになりそうだ。
それから。
ぽろぽろと泣きながら、喉に詰まって上手く話せない声も隠さず、今までのことを全部話した。
『よぉ頑張ったな。』
黙って聞いてくれていた侑士は、一区切りのところでそんな労いの言葉を一言だけ。それでまた泣いた。
貰った優しさとあたたかさが今日ほど身に沁みたことはない、そう思うほど彼の心にすっぽりと包まれた気がして。
『で、、辞めたらどうするん?』
「…うん…まだ考えてない…。」
やっぱり甘ったるい、ゆっくりと頭を撫でるような声に、ぐすぐすの鼻をティッシュで拭いながら答える。
丸まったティッシュは5つ。
ころころと足元にうずくまって、たった十分十五分で良くこれだけ泣いたものだと思う。
『そうかぁ。少しゆっくりするのもええかも知れへんな。』
「うん…」
『な、。』
不意に侑士が声を切った。
仕切り直すような間は、ちょっと不自然。
『こっちに来ぃへん?』
「…へ?」
『俺、今月の15日、誕生日なんや。』
去年の今頃は侑士もこっちにいて、私も景吾とまだ別れていなかったからみんなでお祝をしたけれど、今年はみんな離れてしまった。
私も余裕がなくて取り上げられなかった侑士の誕生日は確かにこの15日だ。
「あ…。そっか、15日。」
『せや、15日。電話したんはそれに絡んだ話やってんけど、がそんな風ならこっち来ぃへんかなぁ…て、思うて。』
「うん、分かった。行く。」
考えるより先に了承の返事が口を衝いていた。
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