Kinari

かんざしの約束

もう辞めるつもりなら、平日京都に行ったって良い───そう思ったけれど、実際はそんなに甘くないということを忘れていた。
だいたいひと月前に辞表を出して、その間引き継ぎをしなきゃいけない。だから結局休むことにした。
風邪だってことにしておけば何とかなる? なんて社会人失格なことを考えつつ、休みの理由はそこに落ち着いた。



午前9時頃の新幹線に乗って、京都駅に着いたのは11時過ぎ。
駅のホームで待っていてくれた侑士の顔を見るのも久しぶりで嬉しくなる。

「侑士!」
「よぉ来たな。車内混んどった?」
「そうでもなかったわ。」
「どっちにしてもお疲れさん。」

駅を出て先ず行ったのは六条通の京料理屋さんで、時期的に鱧は食べれなかったけれど、京野菜をふんだんに使った食事を堪能した。
次に行ったのは四条の界隈。
八坂神社も清水寺も、時間を忘れるほどゆったりしていて、正に心の洗濯をしたといった感じ。
清水寺のことを、親しみを込めて“清水さん”と呼ぶんだと、侑士は教えてくれた。

「清水さんな、塔頭の一つに成就院ていうトコがあってな。」

清水寺に通る細い道を歩きながら穏やかな表情で話す侑士は、とても素敵に見える。
それだけで趣きのある細道を背にした侑士が、何時にも増して艶っぽくて。

「…塔頭?」
「そ、たっちゅう。高僧なんかの墓のそばに、弟子が師を慕って建てた小庵のことや。」

さすがは京都在住、よく知っている。関心してこくこくと頷くと、その横顔のまま唇が動く。

「清水さんには沢山の塔頭があって、いつも拝観できる訳やないんやけど、」
「うん、」
「特別拝観や美術展なんてのがあってな。」
「美術展なんてやるの?清水さんで?」

結びつかない単語に驚いて侑士を仰ぎ、見合ったその顔がこちらを向いて、まじ、と私を見詰めた。

あれ…?侑士、こんなに端正な顔立ちだった…?

じっと止まった、私の頭の上のあたりに視線を注ぐ彼に、必要以上にドキドキしてしまう。

、動かんで、トンボ。」

立ち止まった侑士は距離を縮め、私の髪の上に止まったらしいトンボを取ろうと手を伸ばして。
お互いに息をひそめ、そーっと───

「っ…」

どうやら逃げられたらしいその指が、また彼の方へ戻っていく。
それを少し残念だと思ったのはなぜかな…。

「残念…」
「せやな、でも髪飾りはこの後に取っておこう、てことやろ。で、美術展な。驚くやろ?」

ドキドキしたまま呟いた言葉は本当に思わずで、声も小さくなってしまった。なんだか不自然だったけれど、私の胸中を知りもしない彼は構わず言葉を継ぐ。

「その成就院ていう塔頭、ずーっと昔にデニス・ホッパーの写真展とかやったらしいで。」
「え、あの“ブルーベルベット”の?」

反射的に返したものの、なんだか自分で自分にはぐらかされたようで、少し寂しい。

「いや、そこは“トゥルーロマンス”やろ。」
「さすがラブロマンス好き。」
「ちゃうちゃう。あれはアクション・バイオレンスがメインやん。」
「うん…確かに。」

結局いつもの侑士に戻ったというか、いつもの私に戻ったというか。
でも案外、彼の素敵なトコロはこんなにも沢山あることを知ることができて、よかったと思う。



夕方近く、清水寺を後にしてから、さあどうしよう?と足を止めた私たち。侑士が、紫野の方に良いお店を知ってると言うので、行くことにした。
バスに乗って到着までの一時間は、きっと本当なら長い。でも、あれこれ話す思い出話であっと言う間に過ぎた。
そんな話の中で、侑士が景吾の話題にあまり触れないことに気付いて、何かあったのかな…と気になったけど、今は触れないことにした。私はもう、景吾の恋人じゃないから。

そうやって着いたお店は、かんざし屋さんだった。

「これなんかどうや?華かんざしやけど和装でなくても良いと思うで?」

そういって侑士は赤と白の花を模した可愛らしいかんざしを手にして見せてくれた。
確かに舞妓さんがするようなかんざしとはちがって控えめな印象で良い。

「ほんと、素敵。」
「ちょっと髪に当ててみよか。」

侑士は私の髪を上げて、そっとかんざしを当てた。
そういえば侑士は髪に触れるの、好きだったっけ…。
合わせ鏡をさせてもらって見たその様子はとても清楚ですっかり気に入ってしまったから、買うつもりで「それにするわ。」と言ったら、侑士がプレゼントしてくれると言う。

「だめだよ、今日は侑士の誕生日なんだし、私がプレゼントしなくちゃいけないぐらいなのに。」
「いや、これをプレゼントする代わりに、俺はを貰うからええねん。」
「は?」

あまりの話で驚いて目を見張ると、侑士は「あとでちゃんとな。」と言って、それを買ってくれた。

「侑士、さっきの…」

店を出て暗くなりかけた京の街を歩きながら聞いても、隣の侑士は何も答えてくれない。
「侑士、」ともう一度読んで、不意にその顔が眼鏡越しの眼差しを真剣な様子に変えた。

「ずっとな、好きやったんや。 のこと。でも跡部と付き合っとったやろ? せやから片思いのまま終わるんやと思っとった。」
「ゆ…し……」
「けど、今はちゃう。だから誕生日の今日、に告白するつもりやったんよ。」
「……、」
「付き合ってや、

ずっと好きだった───その一言で、侑士がなぜいつも私の辛い時に手を差し出してくれるのか分かった気がした。
この人はいつも私を見てくれている。それが何より嬉しい。それだけで満たされていくことが。

「ありがとう…よろしくお願いします。」

そっと差し出された手に手を重ねて、夕暮れの京都を満たされた気持ちで歩いた。










「いやー、おどろいたよ。」

あの、顔も見たくないと思った上司がにこやかに笑っている。この人のこんな顔を見るのはきっと最初で最後だろう。

「結婚退職、おめでとう。くん」

そう。ひと月後、京都に嫁いで侑士とずっと一緒に生きて行く。

「はい、ありがとうございます。」
「姓はどうなるんだい?」
「はい、忍に足で忍足姓になります。」
「忍足か、いい響きだね。」

そういって上司はこくこくと頷いた。

忍足、この名前と、そしてあのかんざしがずっと侑士と一緒の証。



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