ねぇ、気付いて。
私が髪を巻くのは、あなたが好きだと言ってくれたからなのよ?
さわ、と。
色付きはじめた楓の葉を、ずいぶん冷たくなった風が足もとに散らしていく。
隣を歩くあなたは、はらはらと舞い落ちる葉を見ながら、張りのある優しげな声を響かせた。
「秋も深まってきたな。」
うっすらと目を細めるその表情に、息が止まってしまいそうになって。
なにも口に出来ないまま、私はただ、ゆるやかにこちらへ顔を向けたあなたにちいさく微笑む。
眼鏡越しの眼差しを緩めたあなたは、しなやかなその指をそっと私の肩へ伸ばした。
「手塚君…?」
「落ち葉が。」
一瞬トクンと高鳴る鼓動。
「…ありがとう。」
それを隠すように精一杯の笑顔で答える私の顔が、あなたの瞳にどんな風に映っているのか気になる。
だって、何気ない仕種も、かすかな微笑みも、全部あなたが好きだから。
出会った時には思いもしなかった。
緑の薄くなった葉を指先に挟んで愛おしむように見詰めるあなたを、こんなに好きになってしまうなんて。
最初の頃より隣を歩くことも増えて目が合えば微笑みあえても、増した想いの分だけ臆病になってしまうなんて…。
すこし切なくなって見詰めていた指先から視線を外すと、その先にいつも別れる交差点が見えた。
もうすこし一緒にいられたらいいのに…。
そんな願いを叶えるために何度も告げようと考えたけれど、怖さの方が勝る私の心はそれをしようとしなかった。
だから今日も…あの交差点があなたと私の分岐点。
明日また会えると分かっていても、別れる前の一言は苦しくて、私はちいさく息を落した。
「。」
名前を呼ばれてそちらを見ると、あなたは柔らかいままの眼差しを向ける。
「先週借りた本、明日が返却の期限だろう?」
「あ、そうね。読み終えたから返さなきゃと思ってたの。」
「君は明日1限からだったか?」
「そう。」
「俺は3限からだから、先に行っている。」
2限が終ったら来てくれ。」
「ええ、分かったわ。」
交差点で足を止めて取り交わした約束は、いつもと同じ図書館の本の返却と貸出のこと。
何もかも、何も変わらないあなたと私。
変わったのは目の前の信号の色だけで、その色が約束の時間まであなたに会えないことを決定付ける。
「また明日。」
「ええ、また。」
静かに告げたあなたに背を向けなければならないこの時が、この先終ることなんてないような気がして心はちいさく鳴いた。
「!」
不意に私を呼んだ声に、足元へ落ちてしまった視線が跳ね上がる。
振り返った先で、あなたは柔らかく微笑んで言葉を継いだ。
「髪、明日も巻いてきてくれ。
君に良く似合ってる。」
その微笑みも言葉も。
それ以上何もいらないと思えるほど、嬉しくてドキドキして。
すこししか開いていない距離でも間違えなくあなたに届くように、一度だけ大きく頷いた。
点滅しはじめた信号が、視界の隅でリミットだと告げる。
「気を付けて。」
優しげに響いた気遣う言葉ににっこりと笑って踵を返した。
明日1限から講議があったって、今日どんなにドキドキして眠れなくたって、必ず巻いていくわ。
初めて出会った時にあなたが綺麗だと言ってくれた巻き髪だから。
「恵理子、今度はフレンチにしたんだ。」
「良く行くネイルサロンで半額になってたから。」
「フレンチって指が長く細く見えるのよねー。」
耳に届く女の子達の色めいた声に、眠い目を擦ってそちらを見る。
一際容姿の良い大人の雰囲気を放つ、同じ講議を良く取っている相沢さんがネイルを変えたらしく、他の子に見えるように手を胸のあたりまで上げていた。
何気なく見た指はとても長く綺麗で、それがフレンチネイルのせいなのか元々なのかは判らなかったけれど、すこし羨ましくなった。
ネイルケアくらいはしていても、私のそれとは全然違うことを考えると、きっと元がいいんだろうと思う。
あんな風に指が長くて綺麗なら、自信を持って手塚君にも見せられるのに。
別に自分の指が嫌いな訳じゃないけれど、彼女のように長くて華奢な指を見れば、やっぱり劣っていると思ってしまう。
「フレンチにでもしたら、綺麗に見えるかしら。」
ちいさく呟いて見た自分の指にすこしだけ劣等感のようなものが湧いて、静かに席を立ち、教室を後にした。
なんとなく次の講議を受ける気にはなれなくて、学校の近所のファーストフードで手塚君との約束の時間までを潰すことにした私は、頼んだコーヒーに口を付けず自分の指を眺めていた。
やっぱり長くて華奢な指の方が良いに決まってる。
女性らしい指といったら、細くて白くて繊細で。
こんな風に節が目立ったりしないんだわ。
一度感じてしまった劣等感に、解決策なんて見出せない考えがくるくると回る。
手塚君にこの指はどう見えているのかしら…?
初めて出会った時、私はペンを動かしていたと、沈みこんでしまいそうな気持ちでその時の記憶を手繰る。
そう、あれは履修登録を終えた学校の図書館で、取った科目の資料を見ながらペンを動かしていた時だった。
珍しく巻いた髪が窓から吹き込んだ風に揺れたのを、偶然前に座っていた手塚君は眼鏡越しの目を細めて見て。
綺麗だと言ってくれた。
その時はただ嬉しくて、ドキドキして。
ありがとうと言うのが精一杯だった。
それから時々図書館で会うようになって、すこしずつ言葉を交わして…。
今に至る訳だけど。
あれからもう半年以上も経っているんだから、当然指だって目に入るし、すこしくらいなら触れたりもしている。
「やっぱり、相沢さんみたいに綺麗な指が良いわよね。」
ほぅっと一つ深めの息を落して、眺めていた指を頬杖に変えた。
そうやってしばらく頬杖をついてぼんやりとガラスの向こうを見ていると、道路を挟んだ正門を行き来する学生の数が増えたことに気付いた。
時計を見れば約束の時間まであと少し。
慌ててバックを取って図書館まで向かった。
すこし小走りになったせいで弾む息を整えながら、昼食時で人気のない図書館を覗く。
くるりと見回した先の書架の奥で人の気配がして、もし手塚君ならたまには驚かせるのもいいかもと足音を潜めて近付いた。
天井まで伸びる書架が、まるでそこだけ隔離した空間を作っているようで、壁際の手前の棚から伺うように覗き込む。
やっぱりそこには、こちらに背を向けた彼がいた。
さっき抱いていた沈み勝ちな気持ちなんて遠く退いてしまうくらい心は浮き立って、声を掛けようと一歩足を進めた時。
今まで考えないようにしていた、一番見たくない光景を見てしまった。
その背中に細い腕が回るのを。
その肩を抱く手塚君を。
すこし遠い距離のせいで、かすかに聴こえる声が何を話しているのか判らなかったけれど、この状況なら聴かなくてもわかる。
来た時と同じように足音を立てず、どうか気付かないでと何度も願いながらやっとの思いで図書室を出た。
出てからすこし歩いて、足を止める。
あの腕の先の、指───フレンチの爪先。
長くて華奢で綺麗な指は相沢さん─────
知ってしまった事実と突き付けられた現実に、自分が報われない恋をしていたんだと分かって胸が苦しくなっていく。
遣り切れないとか辛いとか、もうそんなレベルじゃなくて。
力なく何歩か歩いたあと走り出した。
早く離れたい。
手塚君からも、相沢さんからも。
彼に恋した自分からも。
どれだけ現実が酷なのかを知った今日を、いつまで引き摺るのか想像も出来ないけれど、これだけは思った。
明日から髪を巻くの、やめなきゃ。
朝早く起きて髪を巻いても、見てくれる人はもういないから。
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