家に帰ってから真っ先に、まだ陽は高いけれどカーテンを引く。
シャッと勢い良くレールを滑ったカーテンの、重くて上についていかなかった裾をきっちりと合わせて光りを遮断した。
一瞬にして広がった色のない暗がりは今の私に何より優しい。
「失恋、か…。」
自分の唇からこぼれた落ちた二文字に、さっきの光景が夢でも幻でもなく紛れも無い現実なんだと裏打ちされた気がして、カーテンの前で突っ立ったままだった体を折り曲げるように床にへたり込む。
そのまま両手で顔を覆って泣いた。
彼女の腕も、肩を抱く彼も、思い出したくもないのに、頭から離れないあの光景がひどく心を蝕んだ。
途中、投げ遺りに放り出したバックの中で携帯が鳴っているのに気付いたけれど、誰であろうと出る気になんかなれなくて、電源すら切らずに放置する。
何度震えても出なかったそれは、しばらくして沈黙した。
それから、一切の時間を止めてしまったらこうなるのかも知れないと思うほど何も動かない部屋でひとしきり泣いて。
ようやくベットに体を沈めたのは泣き疲れたあとだった。
暗がりの中ベットに突っ伏して、これまでのことを、手塚君との記憶を思い返す。
あまり感情を表わさない彼の、かすかな表情の変化を捉えることが楽しみで嬉しくて、昨日まで手放しで恋していた自分のことも。
でも、それは昨日までの話。
明日からは出来るだけ顔を合わせないようにしなきゃ。
もし合わせても何も思っちゃいけない。
感じちゃいけない。
どれだけ好きでも、彼は相沢さんの恋人なんだから。
苦い思いに食い散らされる胸がズキズキと痛みを強めていく中、ブランケットに潜り込んでひたすら時間が過ぎるのを待った。
明日が永遠に来なければいいと思いながら。
あんなに辛かった夜が明けて、来なければいいと願った朝はやっぱり来てしまう。
目が醒めたのは髪を巻くために早起きする時間だった。
習慣化した日常の行動パターンが自分の中にしっかり刷り込まれていることに苦笑する。
「もう巻かなくてもいいのにね…。」
今日は1限からじゃないし、もう少し寝ていても大丈夫と、ブランケットを手繰り寄せようとして昨日全く携帯をチェックしなかったことを思い出した。
何度か鳴ってたのにとても出られる余裕がなくて、昨日は充電もしていないから電源が落ちているかも知れない。
ゆっくりと足を床に下ろして目を遣ったバックは、放り出されたまま部屋の隅でいじけて蹲っていた。
その様がまるで自分のようで可笑しくなる。
笑うことは出来なくても、ほんのすこしだけ気持ちが軽くなった気がした。
体を折り曲げて腕を伸ばし、バックを探る。
取り出した携帯の電源は思ったとおり落ちていた。
充電機に繋げて電源を入れると、着信が5回。
メールは2通で伝言が1件の表示。
眠気に押されながら着信履歴の画面を出した時、思わず指が止まった。
「手塚君…」
履歴はしっかり彼の名前と番号を映し出していたから。
何度淡い期待を寄せて携帯を握り締めたか分らない、その名前と番号に、胸は切ない悲鳴をあげる。
そのまま彼からの着信回数と時間を確かめた。
「4回も…。最初は午後12時…9分…。」
その時間は、私が図書館を出てからすこし経った頃、だと思う。
なんとなく不思議に思ったけれど、良く考えれば約束していたんだから、連絡があってもそんなにおかしいことじゃない。
彼に会わなかった昨日は、事実上約束を破ったのと同じだもの。
スクロールして見た最後の着信は午後6時を過ぎてからだった。
「悪いことしちゃった…」
チクリと胸に覚えた痛みにちいさく呟いて、今度は伝言を聴こうと開いたその操作画面に、再度彼の名前を見る。
すぐに再生のボタンを押して、ぎゅっと耳に押し当てた。
『、今日君は図書館に来ただろうか?
もし来ていたなら、きちんと説明しなければならない。
明日また、図書館に来てほしい。2限の終わり頃から待っている。』
かすかにノイズの混じる愛して止まないその声は、私を切なく苦しめて。
この伝言の真意を汲み取ろうとする意識を、ひどく虚ろなものにした。
行けるはずない。
まだ真新しい傷では、まともに顔を見ることなんて出来ないから。
そっと、躊躇いながらも消去のボタンを押す。
またブランケットに潜り込んで切なく鳴く胸を押え、学校で彼に会わないようにするにはどうすればいいのかを考えた。
再度落ちた眠りから醒めると、もう午後に近い時間になっていて。
随分長い2度寝になってしまったことを悔やみながら、3限からは出ようとのろのろ起きて支度を始める。
もう必要のないカーラーやコテが昨日の朝のままテーブルの上で寂しげに固まっているのを見て、思わず視線を外した。
いつものようにちゃんとメイクする気力はなくて、ごく簡単にコンシーラーとファンデーションだけをのせた顔は、お世辞にも健康的とは言えない。
マスカラとグロスで色をつければ、それでもなんとか出掛けられそうな気がするのは、今の私じゃこれが精一杯だから。
出る間際、充電の終った携帯を取ってマナーモードに切り替え、ヒールに足を滑り込ませた。
3限は結構好きな初老の教授が講議を持っている“フランス近代詩”で、教室に入った時にはもう教授が教壇に立っていた。
必須じゃないこの講議を取っている学生は少ないらしく、まばらなその数人の気を削がないよう静かに、ドアに一番近い席に着く。
特別面白いとか興味を惹くとか、そんな内容ではなかったけれど、それでもなぜか講議の終り頃には次も必ず受けたくなって、この講議を皆勤している私。
そう言えば、手塚君にその話をした時、何か気になったらしい彼は興味深げに一度講議を受けてみたいと言っていた。
ひっそりと、一緒に受けられたらいいな…なんて思ったことを思い出す。
もちろん、彼自身取っている講議があるから、それが実現することはなかったんだけど。
思い返して、また胸は鳴いた気がした。
どこまでも落ちていきそうな気持ちを切り替えるためにも、講議に集中しようとペンを持った時、後ろのドアが静かに音を立てた。
あからさまに振り返ることは出来ないし、きっと今は教授の声を耳に留めることが一番賢明。
気にする程度気配だけそちらを伺い、持ったペンをノートに落しかけて、左隣に座った、今ドアを開けただろうその人を横目で見た私は、一瞬本当に息を止めた。
「テキスト、忘れてしまったから貸してほしい。」
前に座る学生に気を遣ってちいさく、それでも聞かれた時のことを想定した言葉を話すその人は、痛いほど切なく想う手塚君だったから。
「手塚、君」
恐る恐る口にした私へ、彼は右手の人さし指を立ててゆるりと唇に当てる。
教授の声とペンの走る音だけが響くこの教室で、それ以上何かを言うことは確かに不用意過ぎるけれど。
驚きも感じる胸の痛みも隠せなくて当たり前でしょう?
自分に言い訳するように俯き、開いていたテキストを横にずらした。
それを覗き込こむ仕種で手塚君は顔を寄せる。
「逃げないでくれ。全部後で話すから。」
耳元で囁くように告げたその言葉が胸に甘い痺れを広げていく。
彼以外、見えなくなったような錯覚を抱いた。
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