「マラルメがランボーと同視化される一番の由縁は───────」
教授の丸みを帯びた声が教室に響く。
周りはペンを走らせその論説を筆記し、自分の内側に取り込むための準備にいそしむ。
私は1人、いいえ、手塚君と2人、他とは違う時間の中にいた。
まるでここだけ切り離したように。
2人だけの秘密を作るように。
テキスト半ページ分だけを開けた肩が触れあうほど近い距離で、かすかな音も声も立てず、こんな風に彼と共有する時間は心を甘く満たしていく。
けれど、脳裏に焼き付いた昨日の光景が混乱を誘い、彼をちゃんと捉えることを阻んだ。
いま辛うじて確かめられるのは、テキストへ落した目に映る、彼の、組んだ足に置かれている手だけ。
その大きな手としなやかな指にかすかな動悸を覚え、耐えようと長机の下の左手をきゅっと握った。
その時、視界の端に見ていた手塚君の右手がゆるやかに動いて、握り込んだ私の手にそっと添えられた。
弾かれて思わず彼を見ると、ほんのわずかこちらに顔を向けた彼は眼鏡越しの視線を緩め、重ねた手でゆっくりと私の手を解き…指を絡めていく。
絡まる指は優しく私の指を辿った。
「今日は巻かなかったんだな。」
宥めるように辿りながらごく小さく口にする彼。
そんな彼の指に言葉に、もうドキドキは止まらない。
頬が熱く火照っていくのを感じて、誤魔化すように視線をまた落とした。
肩のあたりに感じる視線と囁かれた言葉に胸が苦しくなる。
それがどういう類いの苦しさか、良く分かっているからもっと苦しくなってしまう。
「巻けなかったの…。」
「巻いていない髪も綺麗だ。」
「…ありがとう。」
密やかに言葉を交わしながら、手塚君は絡めた指で私の指をそっと撫でた。
まるで愛撫するようなその指に、易々と心は甘く溶け出して。
昨日のことを意識から遠く押し遣った。
どれくらい時間が経ったのか分からないけれど。
耳に届いたチャイムの音で終業に気付く。
小さく起こったざわめきの中、手塚君は惜しむように絡めていた指を解いた。
他の人の声に次はレポート提出があると知ってちゃんと書けるか不安になっても、今心を占めているのはノートを取らなかったことより離れた彼の手。
その手が私にとってどれだけ効力をもっているのか充分わかっているからこそ、確かめたくなる砂糖菓子のような甘い甘い感覚と離れてしまった寂しさに、ちいさく息が落ちた。
こんなにこんなに好きで、大好きで焦がれていて、彼が彼女の恋人だったとしても、もっと触れて欲しいと、触れたいと願ってしまう私を誰が咎められると言うんだろう?
ずっと彼と絡めていた自分の指を一瞬見詰めて、止まらなくなりそうな気持ちを制するように立ち上がろうと椅子に手を掛けた。
同時に視界を割って大きな手が差し出される。
その手から声の方へゆるゆると視線を移すと、柔らな眼差しを向ける手塚君がいて。
「昼食は?」
柔らかでも真直ぐな眼差しに、くらりと揺らぐ意識。
首を小さく横に振り、躊躇いがちに彼の手へ自分の手を伸ばした。
私の手がその手に触れるより早く、彼は手を掴んで引き上げる。
「それなら付き合ってくれ。」
やんわりと、けれど強い意志を持って言葉を継ぐ彼に、もうどんな言い訳も効かない気がして手を預ける。
そう、言い訳が効かないのは私の方。
握った手に思うのは、そんなあきらめにも似た随順だった。
彼に恋した日からすべてを明け渡していたんだからと、ドアに手を掛けた手塚君の背中を見詰め、気取られないように溜息を落とした。
ギィ、と重い音をさせて開いたドアがそれまで隔てていた外界に私達を曝す。
人気のない、その先に広がる景色はいつもと同じ。
けれど、それは何かがどこか違った。
さっきまで外を遮ったような空気の中にいたせいか気持ちも落ち着かない。
廊下を歩きながら握った手にすこしだけ力を入れると、わずかにこちらを見た彼は強く握り返す。
そのあと、彼の唇が静かに動いた。
「昨日、君が見ていたと気付いたのはドアが閉まった時だった。」
それは今の私にとって何より辛い言葉だった。
廊下の先で教室移動をする他の学生の笑い声がヤケに大きく響く。
「え、」
隠せない動揺に足は止まって視線は下へ落ちた。
同じように足を止めた彼の、次の言葉がどうか致死量に達するものでないようにと。
いいえ、どうせなら瞬殺するくらいであってほしいと祈る私は、きっと泣きそうな顔をしていたんだと思う。
「泣かないでくれ。傷つけたい訳じゃない。
誤解させてしまっただろうから、きちんと話しておきたいんだ。」
繋いでいない左手をそっと肩に置いて私の顔を伺う彼の表情にはすこし辛そうな色が浮かんでいた。
彼にそんな顔をさせたことが厭で、無理をした訳でもないのに自然と視線は上がった。
「手塚君…」
「相沢とのことは、
彼女のプライバシーにも関わる話だから言及は避けたい。
だが、特別な関係でないことだけは信じてほしい。」
肩に置いた手にすこしだけ力を込めた彼は苦しげに言葉を継ぐ。
「急いで追い掛けた時にはもう君はいなくて、正直頭を抱えた。」
「ごめんなさい、邪魔しちゃったんだと思って私…」
「だから今日、来てくれなかったのか?」
「それは…」
行かなかった理由を具に挙げるのは告白するのと同義。
私を捉えたあまりに真直ぐなレンズ越しの瞳にその先を伝えることなんて出来なくて、どうしていいか分からないまま視線を外した。
告げることができるなら、その方がきっとずっと楽。
今まで何度もそう思って出来なかった理由を悲しいくらい私は良く分かっているから。
だから告げられない代わりに、彼に会う日は髪を巻いたのだもの。
胸の内側で何かが私を締め付け、心を切なさでいっぱいにしていく。
そんな私を諭すように、ごくわずか、彼は息を詰めた。
「昨晩、」
その表情に苦しげな色が濃さを増す。
「繋がらない電話とあの時君がなにを思ったかを考えて、眠れなかった。」
私を捉えていた視線を肩のあたりまで落とした彼に、鼓動は大きくドクンと鳴った。
なんてことなの?
恋しい人が私を想って眠れない夜を過ごしたなんて。
心臓は壊れそうなほど早鐘を打って、締め付けられる胸に呼吸さえ出来なくなりそう。
「私…」
何を言っていいのか分からないまま口を開く。
溢れ出す気持ちを伝えたいのに、どんな言葉も足りない気がしてそれから先が出てこない。
もどかしさと歯がゆさの入り交じる胸をそっと押え、繋いでいた手をきゅっと握った。
さっきと同じようにその手を握り返した手塚君は、艶やかな黒い瞳をかすかに揺らして。
「誰かを想って眠れない夜を過ごしたのは君が初めだ。」
さらり、と巻いていない髪を大きな手で撫でた。
「柔らかな君の髪が好きだ。
細い声も華奢な指も。
、君が好きだ。」
その手はどこまでも優しくて甘くて。
私は一度大きく息を落とし、嬉しさと愛おしさで震える胸を彼に預けるように寄せて唇を動かす。
「好きよ…大好き。
苦しいぐらい好き。」
「ああ、、大切にする。」
甘い声を響かせた彼の鼓動を感じながら、小さく呟いた。
「また明日から、髪を巻くわ。」
あなたが綺麗だと、好きだと言ってくれた髪だから。
ずっとあなたに愛されるように。
ずっとそばにいられるように。
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