「へぇ…また今度はえらく気難しそうな人を撮るのね。」
マウスを動かしながら、生返事よろしく気のない答えを、肩と首で挟むように押えた受話器に返す。
『気難しい?彼が?』
外で掛けているらしい周助の電話の声が霞んで聴こえるのは、電波が悪い以上に仕事しながらだから。
こうやって手を動かしつつ電話することにはもう慣れたけれど、長くなればやっぱり首も痛くなる。電話の時は大抵左肩を使っているから余計かも知れない。
モニタに映る画像に目を遣ったまま、気になりはじめた首の鈍い痛みに小さく眉をひそめて「そう。」と短く切って答えると、外の、車の往来来の激しいらしい音に途切れながらも受話器の向こうで周助の笑った気配がした。
『彼はどうもそういう印象を人に与えてしまうみたいだな。』
なんだか良く知ってるような口ぶりで今度ははっきりと笑って返した周助は、ウチの事務所が受ける仕事に高い頻度で関わるカメラマン。そして私の昔のカレシ。
「違うの?」
『ああ、違うよ。堅さはあるけど神経質じゃない。」
微かに、でもはっきりと喉を震わせて返した周助に皮肉めいたものを感じて確かめるように聞いたけれど、それは元恋人なんていう関係の温さがヘンなところでヘンな親しみになっている今の、丁度良い距離感に返したという感じで。だから、名前と雑誌の記事でしか知らない、周助の今度の被写体の実際がどうかなんて、割とどうでも良いことだった。
「ふーん。やっぱりプレス(印刷物)はプレスって事ね。」
モニタに見るロゴの、パスの歪みが思ったより大きかっかったせいで、直しの手間を思って気のない声を隠さず溜息混じりにゆるりと返す。そんな私の返答を可笑しく思ったのか、周助はまた小さく笑った。
『見に来ればいいよ。』
「は?」
『息抜きだと思ってさ。』
素頓狂な話の展開に思わず聞き直す。
ノイズが増して一段と遠くなった声と周囲のざわつきが引いた様子からどうやら地下に入ったことが分かって、慌ててキーボードに置いていた左手を離し受話器を持ち直した。
「本気じゃないわよね?」
『そうだな、差し入れは甘いものより塩気のあるもので。』
「周っ、不二さんっ、」
『本庄スタジオ、2スタ、18時入り。よろしく。』
「ちょっ、」
人の話をロクに聞きもせず、独り善がりな言葉を投げて、周助はすぐに電話を切ってしまった。
多分じきに電波も届かなくなると思って切ったんだろうけど、それにしてもちょっと勝手。
「まったく…」
どういうつもりなんだろうと思う以上に相変わらずの強引さが恨めしくて、まじまじと受話器を見たまま諦観の息を混ぜながらこぼす。しかも、行くことにされてしまった切っ掛けの被写体、手塚国光という人に興味の欠片もない訳だから、きっと間違えなく楽しくなんかないだろうことを想像してこめかみを軽く押さえた。
「チーフ、大丈夫ですか?」
心配そうな声のトーンに隣を見ると、筒抜けだった電話の内容にアシスタントの伊織ちゃんがうかがう様子で眉根を内に寄せている。
「ええ、大丈夫。あの人、大なり小なりいつもこんな感じだから。」
アシスタントに心配掛けるなんて情けないことこの上ない。返す言葉と共に、自嘲なのか周助に対してなのか分からない苦めの笑みが浮かんだ。
「不二さん、いつもチーフには押し、強いですもんね。」
「ほんと。どうにかならないかな、あの強引さ。」
「でも、手塚国光って今どこのプレス屋も押えたがってるんですよね。グランドスラムに一番近い日本人って。」
くるりとした目を少しばかり見開いて、伊織ちゃんは自分に確認するように話した。
確かに日本人初のグランドスラム覇者になるかも知れない人なら、時事関係も含めて出版各社は押えておきたところだろうとは思う。さまざまな誌面で見る限り悪い容姿じゃないし、いわゆる“エグゼクティブ”なら女性受けだっていいから尚更。
「そうね…、時の人ではあるわよね。」
「会っておいてもいいんじゃないですか?」
うかがう視線を向けながらも悪戯っぽく笑った伊織ちゃんの言葉に、確かにそうかも…と思ってみる。でも、今回はあまりに急過ぎた。今日の話を今日、まだ朝聞いたのであれば無理にでもねじ込めるけれど、18時入りの予定を14時に聞いたんじゃ、それはもう無理と言うレベルじゃない。話す方がどうかしてるといったトコロで。
「ちょっと難しいかな…。」
改めてモニタに目を遣って、そこに映るロゴの複雑なパスを改めて見直し、肩で小さく息を落とす。
まぁ、急だった訳だし?
大体、関係者以外が撮影の現場に行くなんて聞いたことがないし。
行かなくても文句を言われたりしないでしょう。
他の予定も当然あって、今から1時間足らずで諸々の段取りをつけるなんてどう頑張っても無理。それに、こんな風に強引な周助に、いつも合わせてはいられないから。
後で携帯にメールを入れておこう。
“仕事で手が離せないから行けません”と。
午後というのは誰にでも足早に感じられるものなんだろうか?
そんなことを考えてしまうほど、毎日の昼過ぎ以降の時間は瞬く間に過ぎていく。複数の仕事を同時に進行させていくことを常にしていても、今日は輪を掛けて早く過ぎた。
「伊織ちゃん、こっちのデータの特色、シュミレーションしてくれたんだよね?」
「はい、してあります。」
「見せてくれる?」
納期の迫った仕事は山ほどあって、18時を過ぎてもまだ退社できそうにない私達の会話は正午過ぎからずっとこんな感じ。
どれだけ時間があっても足りないくらいで、頭痛すらおきそうなほど。
こめかみを軽く押さえながら彼女に出してもらった書類を見ていると、デスクの脇に置いてあった携帯が震えた。
横目でチラリと見遣ったディスプレイに光るのは、“不二さん”の文字。
(しまった。忙しさに流されて、まだ断りのメールを入れてなかったわ。)
目を書類から離さずに、手だけ伸して携帯を取る。
第一声は謝罪ね…と低姿勢を決めて通話ボタンを押すと。
『さん!』
「はい…?」
『繋がって良かった。』
気持ち騒がしく感じる電話の向こうからは、意外にも胸を撫で下ろしたような調子の声が聴こえた。
「え?不二さん…?」
普段余裕しか見せない周助がこんな声を発するなんて、余程の何かがあったらしいと察した直後。
『今すぐ本スタに来てほしい。』
いつもと同じ調子に戻った声は、こちらが謝罪を入れる間もなく急を要する言葉を告げた。けれどその、戻った調子の中に、幾らか切願が含まれているようで気に掛かる。
「何があったの?」
『こっちに請求してくれればいいからタクシー使って。』
「どういうこと?」
『ワケは後で話す。時間がないんだ、すぐにそっちを出て。』
切羽詰まっている様子が話し口から感じ取れても、時計はもう、先に聞いていた18時を疾うに過ぎ19時になろうとしていて。
今からどれだけか時間を割くとなると、抱えている仕事のヤマ場の分だけでも上げ切るには、最短を見積っても日を跨ぐだろう。
ここややはり断るのが妥当と、口を開いた。
「良く分からないけど行けばいいのね?」
──あれ…? 私、何を言ってるんだろう?
『恩に着る。』
──断らなきゃ、今日は泊まり込むことになるのよ?
「いいえ。こっちが困った時はいつも助けてもらってるから。」
断りの言葉を勝手に覆して、なぜか行くことを了承する答えを告げたこの口は、周助との関係の温度をまた高めたいんだろうか?別れてもう2年も経つのに。
そう思いたくなる程、するすると口を衝く言葉は全て肯定の意志を示したものばかり。なんだか自分が分からなくなった。
それでももう、周助の安心した声の印象から、前言撤回は叶いそうにない。
常備してあるデンタルリンスが切れ掛かっていたことを思い出しながら「急いで出ても30分は掛かるわよ?」と伝えて電話を切った。
いつもなら冗談で済ませられる周助の切り際の『愛してるよ。』が、“助かった”と同義の、ただの儀礼的な言葉であることを祈って。
事務所から本庄スタジオまではとても近い。直線距離なら約10分で着く。
伊織ちゃんや他のデザイナーの子にやっておいて欲しいことの指示を15分で出してあとの5分でメイクを直し、きっちり30分後に到着した。
何回か来たことがあるから分かるけれど、ココは色んなことに厳しい。
先ず、誰でも自由に出入りできる訳じゃないエントランスを通るには、受付で周助の名前を言って彼に迎えに来てもらわなきゃいけない。その他にもいろいろあって、著名人を撮ることの多い昔からの名門スタジオは色々と大変だと思いながら来客用の書類にペンを走らせていると、すぐにエントランスの先から見慣れた姿が出てきた。
「すまなかったね。急なお願いをして。」
「ううん、大丈夫。で、何があったの?」
サインを終らせ、スタジオに行くまでの短い廊下でそう聞くと、周助は渋めの表情を浮かべた。
「ちょっと言いづらい…な。」
足を止めないでこちらをじっと見詰めるように瞳を凝らす彼のこんな仕種は、予想外に私の胸を騒がせる。
「言いづらい?」
反復して尋ねた言葉を遮って、もう着いてしまった第2スタジオの重そうな遮音ドアを引いた周助の腕の勢いに、もしかしたらトンでもないことを了承してしまったのかも知れないと、初めて後悔の二文字を脳裏に浮かべた。
「木澤くん、モデルが来たから準備を。」
一人中に入っていく周助の背中越しに、今なにか聞いちゃいけない言葉を聞いたような…。
中では声を合図にして、止まっていた空気が急に動きはじめる。それとは反対に、危険を察知した草食動物が辺りを伺う時と同じく、私の足はその場で固まった。
「なにしてる?入ってこいよ。」
こちらを振り返った周助の、仕事仕様に変わった目は、もう私の知っている彼じゃないと言っている。その姿を追い越して向こうを見れば、さっき出てくる間際に伊織ちゃんがちらっと見せてくれた雑誌のままの、あの手塚さんが、アシスタントカメラマンの木澤くんやスタイリストさんを脇に、ホリゾントの前で立っていて。
一瞬だけ私を捉えた彼の強い眼差しが私を射った。
「あの、不二さん…」
自然と、周助を呼ぶ声は消え入りそうなほど小さくなってしまう。呼んだ声にゆっくり近付く、けれど尖って感じられるその靴音が怖い。
「話しづらかったのは、モデルの代役を頼んだつもりだったからなんだ。」
ドアのそちら側に入れない私の前で足を進めた周助は、小声ながら救いようのない一言を口にした。
「そんなっ、聞いて──」
「ああ、話していない。」
入り口を境に向こうとこちらで対峙するように向かい合った周助に、縋るように振り仰いで放った声が荒くなったって、今ここで頼りになるのがもう自分しかいないなら、それは至極当然な反応。
「話したら来てくれなかったろう?彼に絡むモデルが急な体調不良で入院してドタキャンを食らったんだ。当たれるだけ他所を当たっても替わりを探せなかった。」
少しの呵責に苛まれたような伏し目がちの表情に、そんな顔をするなんてズルイと思ったら、口元は意識しなくても堅く結ばれていく。次の言葉を継げないまま投げ出した私の声は、行き場をなくして途切れた。
同時に視線も周助から外して。
「たった2時間程で諸々全てを満たす代役なんて、それはもう端から絶望視して当たり前だ。そのあたりのことは君にも分かるだろう?」
頭のつむじのあたりで聞く周助の声がとても遠い。
目を合わせずに聞いているからだろうか?
「だからって、なぜ私なの?」
「君がモデルの空気感に一番近かったからだよ。これは僕だけの意見じゃない、ディレクターの佐山さんの指示でもあるんだ。」
周助の口にした名前に弾かれて、思わずまた彼を振り仰ぐ。
ほんとうにズルイと思った。
佐山ディレクターは私の手掛ける仕事の殆どを回してくれている、決して足を向けて寝られない人。
ここでその名前を出されたら、佐山さんの仕事の行程下にある私にはもう手も足も出ない。それに、ディレクターの指示が絶対だと知っている以上、最早退路を断たれたも同然だった。
「正面は撮らないしギャラもちゃんと出す。」
じっと私を見詰める周助を、こんな風に忌わしく思ったのは初めて。さっきの電話の切り際の言葉を少しでも意識した自分が腹立たしい。
睨み付けたい心境で周助をキッと見据えて、手塚さんの耳には決して届かないように声を潜めた。
「ギャラなんていらない。でもこれだけは約束して。何があっても誰か判別のつく撮り方はしないと。」
「ああ、約束するよ。」
やけにゆっくり返した声のすぐあとで、アシスタントカメラマンの声が「手塚さん、オーケーです。」と大きく響く。そちら側に顔だけ向けて了解の意志を示すように軽く頷いた周助は、手をゆるりと伸して私の肩に触れ、中に入るよう促した。
触らないでと言ってやりたい気分。そしてそれが出来ない今の私はまないたの鯉でしかない。
覚悟を決めて恐る恐る中に踏み込み、触れた手をかわすように身を縮めながらホリゾントの前を横切る。
途中、手塚さんの鋭利な視線を感じて、バックを持つ手には力が入った。
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