「モデルさん、オーケーならINして下さい。」
スタジオの隅でメイクさんに顔を預けていた私の耳に、不意にアシスタントカメラマンの木澤くんの声が飛び込んで来た。
随分時間も押したこれから、いよいよ絡みの撮りに入るらしい。
自分に向けられたモデルという言葉に怖ささえ覚えて、テーブルの下で握っていた手をキュッと握り込む。
呼応するように「待って、あと少し。」と、丁寧にパフを顔に当てながら、答えてくれたのはメイクさん。
マネージャーなんて当たり前にいない私には、こんな些細な一言でさえ支えになるから有り難い。
「大丈夫ですよ。手塚さん怖そうに見えますけど、優しくてモデルさん受けも良いですから。」
軽く力んでいるのが分かったのか、メイクさんは続けてにこやかに微笑んだまま言葉を継いだ。
「はい…」
こくりと頷きながら出した声の小ささに、今どれだけ自分が心細いかを改めて知る。
緊張をほぐそうとしてくれている彼女の気遣いがかえって哀しくて涙が出そう。
声に出さないように、僅かに胸の内で泣いた。同時に後ろで人の気配を感じて、誰にも知られるはずのない胸中を改めて隠すようにメイクさんに顔を預け直す。
「仕上がった?こっちを見て。」
背中を飛び越して聴こえる周助の声は至って冷静で仕事仕様のまま。
「あ…」
肩に触れたその手に、無意識にビクリと反応してしまう。
肌触りの良いブラシの柔らかさが、幾らか知っている指先の感触に変わって思わず首を竦めた。
「うん、良い具合だ。行こうか。」
そんなささやかな抵抗を気にしない様子の周助は、すぐさま腕をぐいと掴む。
カタンと小さく、軋むように音を立てる椅子。
まるで今の心境を音にしたような、そんな心許ない音だった。
もう腹を括るしかない。
最奥の方に向かって「遅くなってすみません。」と声を掛けた彼の腕に引かれて、あっけなくホリゾントの前に立たされて。
「周助、」
「大丈夫だよ。」
不安でいっぱいの顔には、きっとそんな表情しか出ていないと思う。ううん、そんな易しいものじゃない。もうほとんど泣き顔。
「周助…」
きゅっと手を前に握って、もう一度名前を小さく呼んだ。
「全て彼に任せればいいから。」
柔らかく笑った彼の笑顔に、涙腺を緩めないようにするのがやっとで、耐えるように唇を噛んで周助を見詰める。そのままゆるりと肩から離れた手は、撮影用のホルターネックのドレスで晒すことを余儀なくされた肌の温度を一気に下げたような気がした。
その、急激な変化を辿ったように感じられる温度の低下に、煽られるのは不安。
遠退く周助の背中も、自然と落ちた視線の先に何があるのかも、見えているようで見えない。
やっぱり心細い…───
「突然だったようだな。」
右隣から掛けられた声に、誰がいたのかようやく気付いてそちらへおずおずと顔を向けた。
「そんなに緊張しなくていい。」
顔を向けた先には、さっき強い眼光を放っていた、今日の主役である手塚さん。
真っ直ぐ私を見る彼に、急な気恥ずかしさと焦りを覚える。
「いえ、あの…すみません…。私、素人なので失礼が…」
「ああ。大丈夫だ。気にする必要はない。」
何も分からなければ失礼があることも想定しておかなければならないと、先に謝罪の言葉を口にしようとした私へ、手塚さんは低めの声をゆったり響かせた。
下準備やライトを調整するスタッフの声が入り混じる中、初めて聴いた彼の声。それは張りを持った、強くも優しい声だった。
──さっきのあの、射るような眼差しとは真逆の柔らかさだわ…。
そこにいるのは確かにさっきと同じ人なのに、まるで違う人を前にしているような印象は、なんというか、良い意味で裏切られたような感覚を引き起こす。
ふと、周助が言っていた“彼はどうもそういう印象を人に与えてしまうみたいだな”という言葉が頭を過った。
「じゃあ、撮りに入りますね。」
そんな齟齬感を断ち切るように響いた周助の声で我に返る。
「まず、手塚さん。時計をしている左手でモデルさんの手を取って口元に寄せてもらえますか。モデルさんはバックスタイルで。」
ファインダーを覗く周助から入った最初のオーダーに、それまで聴こえていたスタッフの声は一斉に止んで。
「え、あのっ、」
本来なら緊張感高まるこんな時に声を出すものじゃないと、分かってはいる。けれどどんな絡みで撮るのか聞いていなかったせいで、思わず声を発してしまった。
手を取ってなんて言われたら、どんなオーダーが入るかわからなくて心配になるから。
小さくても鋭く上がってしまった私の声に、手を取ろうとした手塚さんの動きは止まって、咄嗟に振り返って見た周助もファインダーから顔を上げてこちらを見ている。
「どうした?」
訝しがるようにこちらを見遣る周助より、先に声を掛けてくれたのは手塚さんだった。
「いえ、あの、どんな撮影内容なのかを聞きそびれてしまって…」
こんなことを手塚さんに話すのは筋違い。
頭では充分分かっているのに唇は動くのを止めず、最後まで声にして。
なんとなく気まずさを感じるのは、必要以上に意識しているからだと思う。
間近に見れば随分と長身でスマートな雰囲気を放つ彼を伺うように見詰めて、そんな私の心中を察してか、手塚さんは眼鏡越しの視線の焦点を自分の右腕に向けた。
「スポンサーの新商品のコンセプトが“恋人と楽しむ時計”だから、そういった主旨の撮影になるな。」
何か思う間もなく、その低音は至って冷静に、そしてやっぱり優しげに告げる。
強い眼差しだと思う。ともすれば威圧的に感じるほど。
けれど今は幾らか解けたように思えるのは、私の緊張がほぐれはじめているからか、彼を間近に捉えているからか────
「どうしました?」
ようやく後ろから聴こえた周助の声を制するように、向こうへ軽く頷いて「大丈夫です。」とまで言ってくれた。
なんだか、周助よりずっと誠実な人のように感じられる。そして、彼に抱いていた最初の印象があまり良いものではなかったことを、幾らか申し訳なく思った。
「手を。」
「あ、はい…」
差し出された左手に、そっと自分の右手を乗せる。
少し節ばった、しなやかな指。
グリップを握るのに適した大きな掌。
その手にそっと引かれる私の手。
彼の口元までの軌跡を辿るように目線で追うのは、ただの条件反射のようなもの。
それなのに、オーダー通りのことをしているだけなのに、なぜか鼓動は速くなっていく。
「モデルさん、もうちょっと身体を寄せて。」
「え?あ、ハイ。」
「こっちに返事しなくていいから。」
まるで、この鼓動の速さを周助に見透かされたような気がして、首を中途半端に回し、見えもしない彼へ視線を送ろうとしたけれど、考えてみればそんなことある訳ないし、第一彼とはもう友人であり仕事仲間なんだから、何も気にする必要なんてないと思い直す。
ただ、軽く窘める声に遮られたこんな失態は、このドキドキがさせた事に間違えなくて。
オーダーだと分かっていても躊躇われる、手塚さんに身体を寄せる動作。
「オーダー通り動いて!」
私の逡巡の理由を当たり前に知らない周助は、少しばかり開けてしまった間で容赦なく激を飛ばした。
人の気も知らないで!と言ってやりたいくらい。
いくら仕事だからって、こっちは素人なんだし直ぐ動けなくても怒らないで…
泣きたい気持ちで一歩前に踏み込もうとした時。
「反応が遅いとまた叱られる。」
ゆるりと腰に手塚さんの腕が回り、やんわり抱き寄せられた。
「……。」
また何か声にしてしまいそうな唇を引き結んでその胸に身体を預ける。あまりに急な接触は、鼓動を更に速く大きくしていく。
「左手を俺の右腕に置いて。添えるだけでいい。顔は胸に寄せていろ。」
密やかに声を抑えて。囁くように。
そんな風に言われたら、素直に聞くしかない。躊躇いながらもそっとその腕に触れ、胸に軽く頬を寄せる。
「いい感じ!そのままで!」
もう、周助の声はずっと遠い。
右手を手塚さんの左手に預けたまま彼の胸に顔を寄せ、左手は抱き寄せられた右腕に添える恰好で一度目のシャッター音を聞いた。
シャッターを切った時に連動して光るライトの、その瞬間鳴ったピピピという機械音と共に浴びせられた多量の光りで、眩む視界はおかしくなりそう。
それは多分、現実から幾らか離れたこんな状況が見せている錯覚だと思ったけれど、うるさい程に打ち鳴っている心臓の音の大きさと速さは、なんだか違うと言っているようだった。
なぜこんなにドキドキしてるんだろう?
たかが抱き寄せられたくらいで。
しかも撮影でのことなのに。
こんなにドキドキするなんて、ライトの熱に充てられてるからだ。多分そう。
たとえ手塚さんが気遣う気配を見せてくれても、抱き締められた強くも優しい腕を感じたとしても、今日初めて会った彼に何かを感じるなんてあり得ない。しかも彼にとっては仕事な訳だし、何より普通に会ったりできない、私達一般人とは違う人なんだから。
言い聞かすようにそんなことを考え、自分の鼓動の速さをいさめるために改めて大きく息を吸った。
それからどれだけオーダーを受けて、どれだけポーズを取っただろう。
ノッているらしい周助の放つ声を脇に、私たちは少し言葉を交わし、少し笑って、真面目に“恋人ごっこ”を続けた。
周りで聴こえる、ライトを飛ばす指示を出す周助の声やスタッフの小走り気味の足音、ライトの光る音や、そういう慌ただしさを含んだ空気に押されてこちらの体温も上がりそうになるけれど、上がるのはそれだけでいい。
「足、辛いだろう。」
耳元の上のあたりで聴こえた声は、短くても確かに彼を伝えてくれる。同時に、髪で感じていた柔らかな感触が動いた気配。それが彼の唇だと分かって、ひと際大きくドキリと鼓動は跳ねる。
「いえ、大丈夫、です…。」
私の答えに呼応するように、多分この無理な姿勢を気遣ってだと思う、また腕の力が少し強くなった。
今、願うのは、この鼓動の速さが彼に伝わっていないように、ということ。些細なことで冷静さを欠いたなんて、どれだけ拙いか自分で言っているようなものだもの。
「すみません、時間がかかって。本番いきます。手塚さん目線下さい!」
この胸中を置き去りにするように、空気を裂いたのは周助の声だった。
すぐにシャッター音とライトの攻勢が始まる。
撮影だと分かっているのに、別に大したことじゃないのに、なぜこんなに焦るのか自分でわからない。でも、なんとなく。周助が告げた「本番」という言葉に、これが、ドラマとかで共演した者同士陥る一時的な疑似恋愛状態なんだと思った。そしてそれを頭の隅で妙に冷静に考える自分が少し寂しく思えた。
「すごくイイ!じゃあ、手のポジションをちょっとずらして、モデルさんの背中のこちら寄りに。目線、自然な感じでお願いします。」
再度のオーダーで手塚さんの左手が背中まで降りて、ホルターネックの衣装で大きく開いた裸の背中に触れる。その手の感触にトクンと大きく、耳に飛び込むシャッターを切る音よりずっと大きく跳ねる鼓動。
あと数分後には、こんな気持ちも感覚も全部消えるのに────
胸中で呟いた自分の言葉は、なぜか白々しくて。
どうしても治まらない心臓の音の速さと大きさに、本当に恋してしまったのかも知れないと不安が広がっていく。そう思うこと自体、きっと現場の空気に飲まれている証拠だろうけど。
不意に手塚さんの指が背中の中心へ向かって微かに動いた。
「鼓動が速いな。」
「え…。あ、の…」
髪をごく僅か揺らす彼の唇。
どういうつもりで告げたのか判断出来ない言葉だった。
それでも、気付かないで欲しいと願ったことを覆したその言葉はしっかり私の胸に突き刺さって、羞恥心から無意識に彼の首元へ深く鼻先を沈めてしまった。
「そういう仕種も新鮮でいい。」
失礼なことをしてしまったと思う暇もなく、密やかに継がれた言葉で顔が熱くなっていく。
…どうしていいか分からない。
「すみません…。」
「誉めたつもりなんだがな。」
「あ…いえ、」
もう一度、声に出さずに喉だけで、ごく小さく手塚さんは笑う。
会話としてはチグハグだったけれど、こんな風に笑う彼に、感じていた気恥ずかしさは幾らか和らいだような気がした。そしてゆるりと腰を抱き直す、しなやかな腕。
「不二の友人だと聞いたが。」
「はい、仕事の関係の友人です。」
「そうなのか。」
周助とは面識がないと思っていたから、手塚さんが口にした名字に驚いて、彼の首元に顔を寄せたまま無意識に目を見開いた。
「手塚さんも、不二さんと関わりが?」
「ああ、学生の頃からの友人だ。」
周助と手塚さんと、そんなに前から付き合いがあっただなんて、周助は少しも話してくれなかった。友人なら、少しぐらい名前を出してくれてもよかったのに。
ただ、先に聞いた電話での口調は確かによく知っている風だったから、言われてみれば納得のできる話ではあって。
でも、だとしたらやっぱりズルいと、周助に対しての恨み言が涌いてくる。
「そうなんですね。不二さん、何も教えてくれないから存じませんでした。」
「今は年に数回も会わないからな。」
「お忙しいですものね。」
「そうだな。お互い。」
周りでは相変わらず、アシスタントさんやスタッフにあれこれ指示を出す周助の声と、それに対応する人の声や足音、シャッター音もライトを飛ばした音も慌ただしく響いている。でも、その騒々しさとはまったく逆の緩やかな空気が私達の間には生まれはじめていて、同じ場所でもこのホリゾント前と数メートル先のスタッフ側とでは異なった空間になろうとしていた。
「仕事は?」
僅かに髪を伝う、彼の唇の動く感触がくすぐったい。けれど酔わないように。流されないように。
「グラフィックデザイナーを。」
「なるほど。やりがいがありそうだ。」
しっかりと自分を持って、同じようにできる限り声をひそめて答えると、手塚さんはずっと同じ位置で触れていた唇を少しだけ左耳に近付けるように下へずらして返した。
それはとても小さい動きだったけれど、なんだか彼との気持ちの距離がその分だけ近くなったような感じがして、気持ちは少し温かくなる。
「ええ、その点だけは思います。」
「だけ?」
耳元で囁いた低い声は、緊張も恥ずかしさもすっかりほぐしてくれて。
「はい、だけですね。家には寝に帰っているようなものですし、何より体力勝負ですし。」
彼の一言に感じたどれだけかの親しみに、クスリと笑いを含めて言う。それに呼応してくれたらしい、喉の奥を詰めた微かな笑いが、耳にごく近い髪を静かに伝った。
こんな風に密やかに、スタッフに気付かれないよう声をひそめながら会話することを、今日来た御褒美のように感じる。いえ、今日だけでなく、いつも終電ギリギリまで事務所に詰めて仕事している御褒美のような、そんな心地よさだった。
「そういえば、まだ君の───」
「はい、オーケーです!お疲れさまですー。」
不意に、良く通る周助の声が手塚さんの声を掻き消して、スタジオ内に響いた。
これで撮影は終了。
終った以上、もう、こういうポーズを続ける必要はなくなる。手塚さんも私もゆるゆるとお互いの腕をほどいて、ずっと寄せ合っていた身体を離し、当たり前のことに気付いた。
撮影が終ったら、それはイコール手塚さんと共有している時間も強制的に終ると。
「お疲れさま。」
「…お疲れさま…でした…」
いきなり引き戻された現実に、千切れた声だけが残る。
寂しいのか悲しいのか分からなかったけれど、ただ胸が寒くなって。張りを持った低い声の告げた挨拶を、上手く受け入れることが出来ない。
眼鏡越しの目元をほんとうに小さく緩めた彼へ微笑み返すことすら出来ず、逃げるように視線をずらした。
視界の端で捉えるジャケットの黒が視界の左へ抜けていく。
途中で肩に軽く、手が触れる。
多分、振り返ってその背中を目で追ったって、誰も何も思わない。
もしかしたら名前を呼んでも大丈夫なのかも知れない。
でも、それはしちゃいけない気がした。
理由を考えることも、自分の内で何が起こったのか突き詰めることも。
だってこれは、たかが2時間ほどの間の“恋人ごっこ”でしかないんだから…。
明日になれば、いえ、このあと事務所に戻れば、全部忘れてしまう。数カ月後に何かのタイミングで見る今日のスチールの内のどれかに、こんなこともあったと思い出すだけになる。
だから何も追い掛けちゃ、出来る限り意識しないようにしなきゃ、いけない。
けれどどれだけ追いやろうとしても、幾つかの記憶だけは意識に引っ掛かって取れそうになくて。
それは一番意識から外さなければならないこと。
包み込むような大きな手。
しなやかで長い指。
強くも優しい腕。
無駄のない肩。
そして、張りのある低く優しげな声。
どうにも上手く、心の内から追い出せそうになくて、下唇をゆるく噛んだ。
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