「差し迫って申し訳ありませんが、この案件、保留継続にしてください。今日中に、出来るだけ早く、何らかのご連絡を入れますので。」
印刷会社の担当さんへ改めて電話で保留の継続をお願いしたのは、佐山ADに連絡を取っての指示だった。
佐山ADが朝イチでクライアントの担当さんに連絡をしてくれたけど、先方は運悪く既に会議に入っていて、確認・動向を伺う余裕はなかったそう。それなら先ずは保留継続の連絡を入れないと、場合によってこの案件自体に穴をあけることになってしまうから。
『うん、分かった。止めておくよ。こっちは大丈夫だから焦らないでしっかり。』
「すみません、ありがとうございます。」
担当さんの快諾に心底感謝しながら受話器を置く。
その手は汗ばんで冷たい。心臓も音を大きくして焦りに訴える。
改めて見る版下データでの地図の相違は明らかで、これは伊織ちゃんのミスというより私のミスだと、深い息を落とした。
「チーフ…すみません……」
本当に申し訳なさそうに謝意を告げた彼女を見れば、瞳はすぐにでも泣き出しそうに潤んでいる。私のため息を自分のミスのせいだと思っているんだろう。
そんな表情に、二重の理由で重くなっていく胸の内。
「違うの、ごめんなさい。引用データ自体に相違があった訳だし、責任者は私だから心配しないで。」
───そう、責任者は私なのに…。
でも、自分を叱責するのは後でいい。
今はこの対処と本刷りの上がりを見るまで気を抜かないことが大切と、背筋を伸ばして。
「こういう事が起こった時にどう対応、対処するか覚えて?」
目の周りを赤くした伊織ちゃんに、もう一度にっこり笑って頷いた。
今日はもう、時間に少しの余裕もない。他の案件や打ち合わせも入っているし、意識の全てを仕事に向けなければ、今週を乗り切るなんて到底無理。
ただ、この、普段だったら切迫した状況も、今回ばかりは好都合に思える。まるで救われた気がしているのは、仕事以外のことを考えられない状態なら国光のことも考えなくてすむから。
気持ちを整えるように、椅子に座り直して。
先ずは午後から入っている打ち合わせの資料を見ようとモニタ脇のファイルボックスへ手を伸ばし、その後一瞬、私は動きを止めた。
ファイルボックスには、先日伊織ちゃんから借りたままの、国光の記事を載せた雑誌が入っていたから。
国光…───
止まった手を意識で蹴って、すぐに必要な書類を取り出したけど、もうダメ。何も頭に入ってこない。
今頃、国光はどうしているだろう? どういう気持ちでいるだろう?
何も伝えずに別れたことを、どう思っているだろう…。
昨夜もう終わらせると決めたのに、こんな大きなミスをおかしたのに、心は国光に留まったままだなんて、本当にどうかしてる。
でも、彼が発つのは今日の正午。
今、この状況でどれだけ足掻いてもどうにかなるものじゃないなら、いっそ好きなだけ泣いていいのかな…。なんて、そんなことはできないんだけど。
また一つ、小さなため息が漏れた。
時計を見れば、長針はもうすぐ10時を指そうとしている。
───もう後戻りはできない…
時計から目を外し、手にした資料へ意識ごと、まるで引き剥がすように向ける。
けれど今度はその案件が、周助の写真を使う予定になっていることに気付いて、思わず天を仰いだ。
多分このままでは何も手につかない。
やっぱり一度気持ちを全てリセットしないと、仕事と心中することになってしまう。
席を立って、迷わず洗面所へ足を向ける。
まだ周助から電話はなくて、彼と直接話をしていないのが救いだと思いながらフロアを出ようとした時、ドアの向こうから大きな花が視界を覆った。
「こちらのスタッフの方ですか?」
花束の配達をしにきたらしい男性の問いに小さく頷くと、男性は真っ直ぐ私へ向けた目をそのままに、にこやかに微笑んで。
「花菱と申します。さんはご在席ですか?」
花束の向こうで男性が口にした宛名に、目を瞬く。
「はい…わたし、ですが…」
配達の男性と手にした大きな花束とを交互に見て答えたけれど、その声も動作もいくらか滑稽だったと思う。
だって、こんな大きな花束を貰う心当たりなんて──────
「手塚さんよりお預かりしました。」
耳を衝いた名前に、眩みそうになる視界。
───国光…
それは追い撃ちさながら。
答えを返せないでいると、配達の男性は伺うように私を見て「あの…」と訊く。
「あ、はい…」
手を伸ばすのがやっとだった。
指さえ受け取りのサインも覚束ないほど、余裕を欠いている。
一礼して踵をかえした男性の後について一歩踏み出すまで、どれだけ時間が掛かっただろう?
そう思えるほど、国光の名前にも花束をもらったことにも動揺していた。
微かに後ろを見遣って、誰かおかしく思った人がいないか確かめる。
よかった、みんな気にしていない。
気持ちを立て直すように花束を抱え直し、廊下の向こうの給湯所へ向かった。
くるくると巻き上げられたリボンとラッピングを外して広げた花束は、大きかったけれどとてもシンプルに纏められていた。
(この花、確か…デルフィニウムだっけ…)
薄い青と濃い青が花の繊細さを引き出していて、とても優美。
他の花が入っていないから、余計そう思えるのかも知れない。
その分、国光がどういう気持ちでこの花束をオーダーしたのか考えると、どうしようもなく辛くなってしまう。
零れようとする涙を懸命に抑えながらバケツに水を張って、花を入れて。
パサッと一枚、何かが落ちた。
それは正方形の封筒。
手に収まりそうな小さい封筒は花と同じように淡い青で、胸が重苦しくなっていく。
そっと取り上げれば、その、少し起毛立った紙質が指触りの良さに訴え、昨夜のキスの心地良さえ誘い出す。
一瞬身体がふるりと震えた。記憶を隅に追いやっても、身体は覚えているとでもいうように。
まるであのしなやかな指と甘い唇に刻み込まれたような、そんな気がした。
指先で丁寧に開くこのカードも、ただ心を甘く切なく、何より苦しくしていく。
『忘れないでいてほしい』
ドイツ語じゃなくても彼の筆跡だと分かるたおやかな文字。
それは私たちが嘘じゃなかったことを知らしめる。
『花の青はonce in a blue moonから』
そんな小さなことを気に留めていてくれたなんて…。
たった二言のカードが、どれほど心を揺さぶったかわからない。
ここまで泣かずになんとか自分を保ってきたけど、もう無理だと思った瞬間、涙がこぼれた。
あとはもう、全て壊れてしまったと言わんばかりに溢れて落ちる。
どうして国光なんだろう?
どうして周助なんだろう?
どうして私…なんだろう…
声を殺すのがやっとだった私には、多分もう何も残らないと痛いほど感じた。
しばらく泣いて、それでもある程度時間をおけば涙も乾く。
ただ辛くて遣り切れなくても、泣くことで消化できる何かがあるんだと改めて思ったりして、フロアに戻った時には結構しっかりした心持ちになっていた。
もう大丈夫、これだけ泣いたんだもの。ちゃんと切り替えられる。
そう思いながら席へ戻り、伊織ちゃんへお花のお裾分けを差し出したら、彼女はとても喜んでくれたけれど、私の方はまた目を遠くすることになった。
周助が来たことを聞いたから。
「え…?不二さんが…?」
椅子に掛けた手のまま、伊織ちゃんへ返す。
デスクを見れば、恐らく今日打ち合わせの案件だろう、写真のディスクが置かれている。
周助が来るなんて思ってもいないし、昨日の今日ならそれはもう、不意打ちとしか言いようがない。
動きを止めた私へ、伊織ちゃんはこくりと頷いて。
「今日、打ち合わせの分の写真を持って来たって仰ってました。お花の宅配があったようだから…って話したら、じゃあ、給湯室かな。って。」
なんていうタイミングの悪さ…。
「そう…。会わなかったわ。花束を解くのに大変だったから、気を遣って声を掛けなかったのかしらね。」
いえ、違う…と、返した答えを自分で打ち消す。
もしかして周助は、私が泣いているのを見たんだ。
なぜ泣いていたのかもきっとわかったんだろう。
それで声を掛けなかった彼が何を思ったのか…。
この後、ますます気まずくなることを察した。
なんだかもう、考えることを放棄したくなる。それほど絡み合った私たちに解ける余地はないのかな…なんて、そんなことを考えながら引いた椅子は、いつもより少し重い気がした。
そのあと、午後は何事もなく、順調に進んだ。
やっと今回の案件が収集のつきそうな連絡を佐山ADからもらったのは、15時過ぎて。
納期の変更が叶わなかった今回、あまりの強行軍だったけれど、やらない訳にはいかない。
フル稼働で色々と作業し、動いて、夜も8時を過ぎた頃、やっとオフセット輪転機を再度回してもらう連絡にこぎ着けた。
だから一息ついて、国光がもう空の上だと気付いたのも、そんな時間。
いえ、正確に言えば気付かないようにしていたのだから、夜という時間帯もハズレじゃない。
思い出せばまた涙はこぼれそうでも、気持ちを張り詰めている分、押さえ込むこともそう難しくないし。
周助からの連絡も、あの後ない。
それでなんとなくホッとする。
どうせ数日中に顔をあわせるのなら一時しのぎ的な時間の経過でしかないけど、今はそれだけで気持ちも楽。
そう、今はただ、仕事に向かっていればいい。
佐山ADの話では、クライアント側で元データの選定ミスを認めてくれたそう。それだけで御の字と言えばその通り。
ただ、回りはじめたオフセット輪転機が最後の1枚を刷り上げるのは、間違えなく日を跨ぐ。
それが終わったら…。
今回の案件が落ち着いたら、思い切り泣こう。
そう心に決めて、モニタへ目を向け。
「チーフ」
呼ばれた声に顔を上げて答えると、「不二さんからお電話です。」の返答が続いた。
その名前に、とくん、と跳ねる脈。
強い気持ちで仕事に向かえそうな今、このタイミングで周助の声を聴いたら、きっといろんな事が揺らいでしまう。
そうわかっていても、出ない訳にはいかない。
周りのスタッフが帰って行く中、気持ちを整えるように一度ゆっくりと息をして、受話器を取る。
「はい、です。」
『お疲れ様、不二です。』
よかった、声は震えていない。周助の声もいつもと変わらず柔らかくて、安心感を抱く。
「お疲れ様。写真のメディア、受け取ってます。わざわざあり───」
『オフ輪、もう回り始めた?』
私が言い切る前に割って入った声は、少し強い印象。
しかも、オフ輪が回り始めたことを訊くなんて…。
「ええ、やっとね。」
『じゃあ、刷り上がりは何時予定?』
伊織ちゃんが彼に話したんだろうことは想像できても、なぜそれを確かめるのか、イマイチわからない。
労いの言葉を用意してくれているのかな…。
「ん…多分、日を跨ぐと思う…。」
『何か特殊印刷でも?』
「ううん、特殊紙でも特殊加工でもないわ。ただ、今回は特色でインクを盛ってもらってるの。」
なぜ拘るんだろう?と、内心伺いながら返した私の耳に、受話器の向こうで聞こえる微かな舌打ち。
『インクの盛り量か…。それだと時間が読めないね。』
「そう、そこが今回のネックで…」
柔らかくてもやっぱり強い印象の声は、独白よろしく呟いた言葉にどこか焦りを滲ませている。
読めない時間の悔恨を込めたようなその言葉が何を意図しているのか、やっぱりわからない。
『予定では何時上がりになってる?』
なぜそんなに気にするの…?
「ねぇ、どうしてそこまで…」
不可解な胸中をそのまま向けて、受話器越しの声は『決まってるだろ。』と苛立たしさを露にした。
『見送りに連れて行くつもりだからだよ。』
「えっ!?」
不意な言葉に、思わず口を衝く愕きの声。
どういうこと?国光はもう出国している筈でしょう…?
『とにかく、そっちに行くから。』
そんな話を急にされても困る。オフ輪は回りはじめたばかりだし、途中でトラブルがないとも言えないし…。
「しゅ…、不二さん、」
『車だから多少押すかも知れないけど、1時間後ぐらいには付くと思う。』
「ちょっ、」
『これで終わらせたらまた泣くだろ!』
その声の気迫と強さに気押されて息を飲んだ後、電話は切れた。耳に痛いほど大きく、受話器を叩き付ける音をさせて。
無理だって分かってるのに、どうしてこう強引なの?
しかも、泣くだなんて。
これで終わりにしたら、って…
確かに泣くつもりだったのに、泣いて忘れようと思っていたのに、改めて掲げられた言葉はまだ終わりじゃないことを知らしめているようで、胸の奥がぎしっと音を立てて軋んだ。
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