心と体と全部で抱き合った後は、このまま瞼を閉じればすぐ眠れてしまう。
昨日仮眠も取っていないし余計にそう。出来れば戻らずに国光と眠りたい。
今日が休日なら良かったのに…
「…今、何時?」
少しでも一緒にいたいと思う気持ち以上に睡魔を除けることが先…と、その胸に顔を埋めたまま時刻を訊いた。
私を抱いていたしなやかな体が、多分、壁に掛かっているらしい時計を見ようとして、向かい合って脚を絡めた私達の間に隙間を作る。
少し寒い。
ブランケットに覗く裸の肩は、鎮まった熱に温度を下げているから。
もう少し内側に寄って、体を戻した彼の腕が私を抱き直した。
「5時だ。」
やっぱり優しくて心地良い、国光の声と腕。このまま抱かれていたいと心から思う。思うけれど、今日は何があっても休めない。
「…そう……」
髪や額に何度も落とされるキスの誘惑を振り切って、真剣にこの後の事を考え巡らせていく。
始発の時間や仕事のこと。
そして思い出す、昨日傷つけてしまった人の影…。
いろんなことを振り切りたくて、別れを切り出そうと顔を上げた。
「国光…」
「ん?」
声を返しながらキスをする彼の甘く艶めいた眼差しに、どうしようもなく辛くなってしまう。
少しずつ白み始めた夜の空が裸眼の瞳の色をさっきより薄くして、間近に見る所為か澄んで映るから尚更。
「…─」
「どうした?」
「うん…」
躊躇うつもりはなくても言葉を続けられない私へ、彼はまたくちづけて。今度は小さく舌先が触れた。
「ダメ…。もう、行かなきゃ…。」
自分から離した唇に、やっと行くことを乗せると、その瞳がふっと曇って。
「まだ夜も明けていないのに?」
───ああ、どうしよう…行きたくない。ここに、この腕の中にいたい…。
胸は切ない音を立てる。キリキリと。
そして名残惜しさに見ていられなくなった目を彼の胸元へ落とし込むのは、鈍い痛みを伴ったその音が、この先も拭えないことを知っているからだ。
「ええ…」
一呼吸置いてほんの微か、長めの溜息を聴いた。
こんなに求め合って確かめたからこそ感じる切なさも辛さも、仕事だってこのシーツに包んでどこかへ隠してしまいたい。でも、私達は大人だから…
もう一度顔を上げて、彼をちゃんとこの目に映す。
「シャワー、借ります。あ…、シーツも。」
「…ああ。」
切なげに揺れたその瞳を振り切るように、にっこりと微笑んで体を返した。
引き寄せるシーツから、ほのかに彼の匂い。
それでぐずった心が小さく哭いたことには気付かない振りをして。
頭上高くから降り注ぐスコールのようなレインシャワーを浴びても、あんなに満たされた時間や記憶は消えない。昨夜の痕が幾つも残る肌から洗い流す泡の分だけ、それは濃くなっていく。
だから余計に考えてしまう。周助のことを…。
国光と抱き合った夜の痕を残したまま、周助の顔を見るなんて無理…─────
結局は、国光の元へ走っても周助のことを振り切るなんてできないんだ、と思った。
それは、まだ周助を愛しているからではなく、うっすらと周助の気持ちを感じていながら気付かないフリをして、最終的に彼を傷つけてしまったことへの償いと言っていい。
国光が自分と住む世界の違う人だと言い聞かせて躊躇っていたのだって、周助の影を断ち切れなかったから。
「国光…」
どちらかの元に走るなんて、やっぱりできない…。
なのに何故、国光に抱かれることを選んだんだろう?
零れ落ちる涙をシャワーに洗い流してもらいながら、声を殺して泣いた。
ごめんなさい…─────
シャワールームを出てからは、私たちは何も話さなかった。というより、話せなかった。
何か一言でも口にしたら、全てが嘘になってしまいそうで怖くて。
それは、私だけでなく国光も同じだったんだと思う。
ベッドの上で起こした裸の背中が、話さなくても何かを滲ませていた。
「国光…」
やっと声を発することができたのは、一昨日の夜と同じように、けれど何もかもが違う空気感のドアの前。
ドアの前で初めて背を向けた先の夜より、全部分かってしまった今の心の方がずっと重いのは当然のこと。
頭ではそうわかっているのに、私を見詰める国光の、微かに表れた切なそうな表情を目にすれば、やっぱり苦しくなってしまう。
「いろいろとごめんなさい。」
「いや、気にしなくていい。」
「…ありがとう。」
思い切れない別れの言葉を濁したまま、その苦しさを躱すように、そっと握りあった手に指を絡めながらくちづける。と、彼の唇が耳に移って、またキスを。
「…」
「国光…」
名残り惜し気に後を引く指が、ゆっくり離れていく。
きっと国光も全て分かったんだと、その時悟った。だから彼は何も訊かず、私を帰そうとしているのだと。
それならここで終わりにしなきゃ、いけない。
「さよなら…」
精一杯の笑顔の後、私は背を返した。
作った笑みならきっと泣き顔だっただろう。
もう一度国光をこの目に映すことなんて到底できそうになくて、ただ足を前に向ける。
本当に必死だった。
ドアノブを握っても振り返らず、そのまま勢いでドアを押せたことを褒めてあげたい…。
初めて国光の姿を目に映したのも、言葉を交わしたのも、つい先日だった。
スタジオで見た彼は凛々しく、そしてまぶしかった。
始発を待つ、まばらな人影から隠れるようにひっそりと、プラットホームの端に立って思い返す。
日頃、そんな人たちと距離を近くすることなんてない私には、ただ臆することしかできなかったのに、なぜだろう? 惹かれてしまった。
国光のことを、この数日のことを考えれば自然と落ちる目線の先には、冷たい石畳の上の、一昨日入店を拒否されたデッキシューズ。
それを捉えた瞬間、何かを思う間もなく涙がこぼれた。
こんな結果を招いたのは自分のせいだと充分理解できているつもりなのに、こぼれる雫を止める事ができない。
周りに悟られないようひっそりと、ただ下を向いて泣いた。と、その時、バッグの中の携帯が震えた。
しん、とした空気に伝わる振動は、涙をふくことすら忘れさせるほど唐突で、咄嗟にバッグをまさぐる。
反対の手の甲で目元を拭いながら取り上げたディスプレイには印刷会社の名前。
それだけで胸を射抜かれたような気になって、慌てて通話ボタンを押した。
「おはようございます。です。」
よかった、声は震えていない。
『おはようございます。こんな早朝にごめんね。』
先方は、今回伊織ちゃんの仕事を刷ってもらう担当さんだった。
「いえ、もう外に出ていますので、大丈夫です。」
『うん、あのね、』
後ろに響くオフセット輪転機の稼働音が、けたたましく耳を覆う。
『今日本刷りに入る案件なんだけど、』
伊織ちゃんの仕事が、どうかしたんだろうか?
「はい、」
『地図、違ってないかな?』
「え…? 地図?」
違うという言葉に、全神経が耳へ集まった。
まさか…本刷りを指示してからミスが見つかった?
『さっき改めて見て、あれ…?と思ってね。このデータの地図、実際の場所と違ってるんじゃないかなぁって、ちょっと気になったもんだから電話してみたんだ。』
「データの相違ですか!?」
これがもしミスならとんでもないことになる。
携帯を持つ手には力が入り、声もつい強くなってしまった。
それでも今は、まず訊く方が先。
「あの、オフ輪機はもう回ってますか?」
『ああ、さっきテスト刷りで回したけど、地図のそれに気付いて止めた。今は回ってないよ。』
「助かります。事務所へ到着し次第確認して、折り返しお電話しますので。」
慌てて話す声は上手く声さえ出せているかわからない有様で、でも担当さんはわかってくれたようで、「わかりました」と返してくれた。
切った電話のまま、すぐ伊織ちゃんの番号を呼び出して。
ほら、ごらんなさい────
“誰か”の嘲る声がする。今週中、ずっとぼんやりしていたから。
そう、私がずっと国光とのことばかり考えて現を抜かしていたからこんな単純なチェックを漏らしてしまったんだ。
ここでもう、本当に振り切ろうと思った。
出会えてよかったと思ってる。
愛したことも抱き合ったことも後悔していない。
でも、これで終わりにする私を許して…───
もう振り返らないと決めた気持ちのまま、電話のボタンに掛かる親指に力を込めた。
それは最後のお別れのように。
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