Kinari

Once in a blue moon 4

インビテーションカードに描かれている案内図通りに足を進めた先は、中庭に面したバンケットルームだった。
正面の出入り口にはちゃんとドアマンがいたりして、時間のないなりにこのドレスを選んで良かったと一安心する。

受け付けで記帳をしてから中に入り、真っ先に目に映ったのは奥一面の窓から見える、暖色系の明かりで飾られた中庭。
柔らかな光りが高く低く、奥まった庭の緑や花をひっそり照らして、手前で室内の明かりを映す明るめに広がった柴の緑と一緒に楚々とした美しさと落ち着きを醸している。
室内も同じように暖色系の照明と板張りを活かしたインテリアで、樹の暖かみがゆったりした雰囲気を滲ませていた。

その、中庭の景観とを互いに引き立てあった感に少しの間見入って、周助が隣にいることを忘れてしまいそうになったほど。人も程々の多さだし、肩に入っていた力も抜けた感じがする。
それなら今度は佐山アートディレクターを見つけようと、辺りを小さく見回して。

「不二さん、佐山AD…──」

上座の奥側で、来客者の間を縫って捉えたその人に、周助へ向けた声は途切れた。

──手塚、さん…

そこにいたのは主催企業の方と思しき男性と、確か昨日もスタジオで見た、同じぐらいの長身の眼鏡を掛けた男性とで話をしている、礼服姿の手塚さん。
その佇まいは昨日と同じように主賓でありながらひっそりとして慎ましく、ロングタキシードの正装の所為か、昨日にも増して凛々しく見える。
だから、会場の男性全てが礼服姿と言ってもいいこの場所で、近すぎず、かと言って遠くもない距離に、それでも彼だけは見間違うことなくすぐに分かった。
そして即座に胸は騒ぎはじめる。思わず目線を下げがちにしてしまうぐらい。

「ああ、僕も───るんだけど、」

周助が何か言ってる。

「───らないんだよ。」

声は聴こえても、何を言っているのか良く分らない。

「佐──…って、どうした?」

佐山さんという単語に、辛うじて探していたことを思い出して、おずおずと顔を上げると、私を覗き込んだ周助の瞳とかち合う。

「大丈夫?」

心配そうなその様子から気遣わせてしまったことを知ったけれど、上手く反応することができない私の意識は、小さく首を縦に往復させるのでやっとだった。

「…大丈夫、ごめんなさい。」

私の声に応えるようにそっと肩へ触れた手は、いつになく優しい。

「気分が悪くなったらすぐに言いなよ?」

きっと目に見えて具合を悪くした空気を作ってしまったんだと、なんだか後ろめたい気持ちになる。
でも、これが手塚さんを見つけて胸の落ち着きを欠いたからだとは当たり前に言えないし、かと言ってこちらから言葉数を多くしたら気持ちはもっと裏腹になりそうな気がする。だから、極力声を明るくして。

「ええ、ありがとう。それで佐山さんは?見つかった?」

出来る限りにこやかに、短い質問をした。周助はその答えを端的に、首を横に振って返す。

「いる筈なんだけどね。」

彼には何も引っ掛かっていないようで、首を伸し気味に周りを伺う様子といつもと変わらない声が安心感を誘う。
まだ脈は落ち着いていなかったけれど、周助と同じく佐山さんを探そうと、上座の奥側はあまり意識しないように視線をすっと流しかけて──今度こそ私の内の全てが止まった。
いいえ、止まったというより釘付けになったと言うべきかも知れない。
まだその場を動いていなかった手塚さんは、さっきの男性二人と一緒にいた。
見留めた姿にそのまま視線を横へ移そうとした時、どういうタイミングの悪戯だろう?彼の顔が不意にこちらを向いて、会釈をするように上下に動いたのだ。

一瞬心臓さえ釘付けになって、止まりそうな気がした。

それは小さかったし、幾らか隔てた距離と周囲の人達の間に見たから、そう見えただけと言えばそんな気もする。でも私には、はっきりとした挨拶に見えた。
そして約束事のように、次の瞬間から全力で、止まったように思えた全部が走り出す。

心臓が胸を痛いほど打ち付けて、壊れてしまいそう。
見つけてくれたことと挨拶してくれたことが嬉しくて、何よりも苦しい…。

おずおずと拙い動きで小さな会釈を返せば、そんな私のぎくしゃくした様子を可笑しく思ったのか、手塚さんは眼鏡越しの視線をふっと落とした。
返すだけで精一杯な私には、これほど揺らぐ自分の拙さを恥ずかしく思う事も、これ以上手塚さんを見ていることもできなくなってしまう。
もう本当に、どこにも余裕は残っていなかった。

手塚さんの後を追うように真っ直ぐ足元へ目を遣ると、何度か見ている周助のフォーマルシューズが映る。
室内の淡い光りを照らすその靴になんだかとてもほっとするのは、今ここで拠り所になる人が周助しかいないからで…。

「あ、佐山さん。あんなところに。」

どうやら見つけたらしい声でなんとか顔を上げて周助を見たすぐ後、司会らしい人の声が室内に響いた。

これからどれだけかの時間、きっと精一杯踵を上げるのは必至だと悟った。
それは社長代理だからとか会社の名前を落としめない為だとか、そういう表立った事以上に、すっかり忘れていたもっと純粋な感情からきていることを肌で感じていた。





「どうする? 何か飲む?」

耳をすり抜けた伺う声に、手の中のグラスが空いていたことを思い出して顔を上げた。幾らかぼんやりとしていた所為で、無意識に視線を落としていたらしい。目の焦点を周助に合わせると、眉を顰め気味に覗き込まれる。

「場の空気にあたった?」

実際の理由はこの空気より手塚さんや私の心だけれど、今は場の空気にしておくのが良い。

「…そうみたい……。」

伏せ目がちに答えて、テーブルの上に空いたグラスを置く。

「本当にレセプションやパーティーが苦手なんだね。」

微かに笑みを持った佐山さんの声も、少しだけ伺うような印象。それを後ろめたく感じるのは、本当に場の空気に中っている方が良いとさえ思っているから。

「いえ、苦手というか、こういう場に限らず飲まれ易いので…。」

それが嘘じゃなくても、あまり進んで話せることではなくて。

「ああ、そうか。去年のAAAの授賞式も酷く緊張してたっけ。」
「やっぱり佐山さんも思い出しますか? あの時───」

二人の話がそちらに向いたことで、少しほっとした。でも、こんな風に意識に余白ができると、どうしても手塚さんを探してしまう。
まだ挨拶に至っていない彼は、どうやら一通りの挨拶だけでも大変なようで、なかなか落ち着かない様子。

だから探して、目で追って…。
ざわめく空気と人の合間に、手塚さんがいないか。
そしてその度に彼も、私の視線に応えるようにふっとこちらへ目を向ける。彼からの視線を受けることも度々。

きっとまだ三十分も経っていないこの間に、もう何度目を合わせているだろう?
目が合う毎に気持ちが重なっているような感覚を抱いて、彼の瞳に触れた分だけ息苦しくなっていく。
それだけで期待しているのと同じなら、本気で恋に落ちたような気がして怖い。

昼間雑誌で見たスチールの、あんな果敢な目を持っている人と、日々を回していくだけで精一杯の私が関わりを深くすることはないと。
私とは全く違うところにいる人だから、同じ場所に立つのは難しいと。
彼との不釣り合いの要素を意識の上に並べれば、幾らだってあるのに。

そう分かっていながら少しも心を離れない彼の姿や瞳に、結局また、手塚さんへ目を向けてしまって。
この視線を感受したらしい彼も、話をしている相手から微かに目を離し、視線を私へ返す。

ほんの一瞬。数秒もない、僅かな時間。
胸の奥がふるりと震える。

緊張は解けていても、鋭いようでどこか穏やかな眼差しを受けた胸は苦しさを強めていくようだった。
そのあとすぐ、手塚さんの元から人が離れて、眼鏡を掛けた長身のあの男性と彼と、二人になった。
後に他に人の来る気配はなさそう。
佐山さんに知らせようかと思いながら様子を見ていると、手塚さんはもう一度こちらを見てから、どうやらマネージャーらしい男性に何かを話し掛けて。

──今なら挨拶に行ける…?

「佐山さん、ご挨拶に行けそうです。」

周助と話していた佐山さんへ声を小さく、周助にも目で伝える。

「ああ、そうか、」

こくこくと頷いてテーブルから離れた佐山さんと周助の後。手塚さんの方へ向けば、彼は一人ですぐそこまで来ていた。

「初めまして、今回の広告の紙媒体でアートディレクターを務めます佐山と申します。」
「初めまして、手塚です。」

挨拶をする佐山さんの背中越し、間近に見る手塚さんの姿はやっぱり眩しい。
一見して政経系に強そうな印象は、テニスプレイヤーだと知らなければマネーエリートや専門的な学識を要する職業の人のように見える。

「いえ、不二さんには以前も撮っていただいています。」
「前回は確か三ヶ月ぐらい前ですね。」
「ええ、あの時はこちらまでご足労いただいて。」

こちら…って、海外に在住…?

耳に入った単語に、ふとそんなことを思った。でも、なんとなくそういう雰囲気があるような気はする。意識や感覚が広いというか。だから余計、理知的に見えるのかも知れない。
そんな彼を前にして、より緊張してしまう私はきっと相当臆病で。
どことなく落ち着かないまま手塚さんと周助の間に目線を置いたのもその証拠。

「じゃあ、不二くんとは今回で三度目なんですか。」
「いえ、実は学生の時からの旧友でして。」
「え?そうなの?不二くん。」

驚いたように声を潜めた佐山さんが周助の方を向き、周助もそれに応えるように頷く。

「話していませんでしたが、そうなんです。」
「それはそれは。」

そんな遣り取りの全てが遠くて、なんだか私一人、取り残されているような気がした。それでもしっかりと誰かに焦点を合わせることは、今の私には難しい。

「オンとオフはしっかり区別するということですか。」

納得したように話す佐山さんの言葉に手塚さんも周助もはっきりとは答えなかったけれど、きっとそういうことなんだろうと推し量る。周助ははっきりと仕事と日常を分けているし、誰か有名な人と知り合いであってもそれを言うタイプではないから。

「仕事で、と言う意味だと今回で三度目ですね。」
「今回もいい画を貰いました。ピンの時も、彼女との絡みも良かったですし。」
「そうだったね、昨日はモデルさんが来られなかったから。急だったから君も慌てただろう。」

佐山さんの声が私に向いたことで、いつの間にか今回の撮影の話になっていることに気付き、目線を上げた。
すっかり挨拶しそびれてしまったなんて今更言えない。

「あ…ええ、驚きました。」

どうしようと思いながら、内心、蒼白して答える。
そしてしっかりとこちらへ向く、手塚さんの瞳。

「昨日はどうも。」

それは、さっきまでずっと距離を置いて合わせていた曖昧な輪郭ではなく、雑誌に見た挑む目でもなく、昨日と同じような、鋭敏さを放っていながらどこか優しげな目。

「…はい、昨日はありがとうございました。ご挨拶が遅れてすみません。」
「こちらこそ。得難い経験をありがとう。」

その和らいだ表情や声に、ただ意識が眩む。
慌てふためく脈と騒ぎ立てる胸の内。

ギリギリ保っているリミッターは、今にも外れそう。それでも返す声の代わりに微笑んだまま首を小さく横に振ったのは、このまま胸のずっと深いところまで手塚さんが入り込むことを拒みたかったからなのかも知れない。
痛手を負う前に救う手立ては、きっとまだあると。



手塚さんはそのあとすぐに場を離れた。
こちらに来た、やっぱりマネージャーだった乾さんから何かの話を受けて席を外し、しばらくして急ぐ様子で会場を出ていった。
話したのは多分、五分程度。
それでも嬉しくて、でもそれ以上に苦しくて。
何も口にせずに来たけれど、前菜を主にしているアペタイザービュッフェに足を運ぶ気にはまだなれない。

「食べてないんだろう? 何か取ってきたら?」
「ええ…。」

周助に気遣ってもらっても、申し訳ないぐらい食欲は皆無。お酒も強い方じゃないから、銀盆を手にフロアをまわるボーイさんへ声を掛けることも一度きり。

「食べないと身体に良くないよ。」
「ありがとう、もう少ししたら。」

改めて耳に届いた心配しがちな声に、なんだか後ろ暗い気持ちになってしまう。だから言外に安心を含ませ、にっこりと微笑んで返した。
その時視界の端に、横を通り過ぎてフロアへ戻っていく手塚さんと乾さんが映り込んだ。

緩く顔を向けると手塚さんは通り際に小さく、今度も一瞬視線を投げる。
そしてやっぱり呼応する、私の胸。
うるさいぐらいにドキドキと音を立てる胸は、同時に重苦しさも抱いて。
もうほとんど、危機感と言ってもいいぐらいに。
通り過ぎたあとに見る彼の肩幅と背中の広さ、きりりとした印象の歩き方も全部、それを助長する。

──少し、少しでいい。

「あの、不二さん」

──苦しさだけでも外へ逃がしたい。

「中庭に出てもいいと聞いたの。ちょっと行ってくるわね。」

幾らか仰ぐ姿勢で心配を掛けないように微笑み、伝える。

「ああ、出られるのか。今から少し佐山さんと外に出るから後で行くよ。」
「ええ。」

私の笑みに答えて微笑んだ彼は、彼の目的の場所へ。私は中庭へ。
それぞれの場所に向かった。

さっき一杯いただいたボーイさんから、庭への出入り口を教えてもらった。
受け付けにほど近い窓側で、手塚さんのいる上座側を避けるようにひっそりと、出入り口へ足を向ける。
彼に背中を見せることになるけれど、このまままた視線を交わしたら、きっと息さえ上がってしまう。そんな今の私では、全てがやむを得ないから。

くるぶしが隠れるぐらい丈の長いドレスを選んだ所為で、裾を少し上げておかないと上手く歩けない。普段あまり履く機会のないピンヒールだから尚更。
膝上の布を小さくつまんで歩き出し、すぐに肩口から滑ったストールが背中を晒し気味にしてしまったことを気にしながら、人の間を縫ってゆっくりと出入り口まで。

ドアはボーイさんが気を利かせて開けてくれた。
丁寧に「お気を付けて。」と言葉まで掛けてもらって。

外に出て、一度深めに息をする。

取り込んだ空気の、澄んで新鮮な感じが心地良い。
程よく刈り込まれた芝生へ目を遣れば、その端に細めの歩道が覗いていた。
足元には均等な間隔で広がる、丸みを帯びた明かり。

最初に見て楚々とした印象を持った奥の方へ、またドレスの布をつまんで歩き出す。
歩道の上は少し硬めの土が乗せてあって、ピンヒールでも足を取られそうな感じはなかった。
進める足に沿って、庭木を照らす明かりの間隔と高さも変わる。それが光りの重なりを不定形に作り、途中から私の背より高くなった垣根状の木薔薇や蔓薔薇の小振りな花を淡く照らしていた。

青み掛かった夜の色を背景にして、とりどりの色が浮かんでいるように見える景観は、艶やかでとても綺麗。
こんなに綺麗なら他に誰かいても良さそうなのに、歩道を抜けた先の小さめな池のほとりには誰もいない。ベンチが二つ、その席を空いたままにしている。
途中で二股に別れていたから、もしかして他にもこういう所があるのかも知れないけれど。

戻る時にもう一方の道も行ってみようと思いながら、少し先のベンチまで一歩を踏み出し、そのあとを追うように背後で土を踏み締める音が微かに聴こえた。
他に人がいないなら、さっき後で来ると言っていたし、きっと周助だと思って───

「周…」

振り向いた先、そこにいた人は周助じゃなかった。

「落ち着けそうな場所だな。」

今、抜けて来た高めの木薔薇を背に放たれた声は、あの張りのある低音。

──どうして

「……。」

──手塚さんがここに……?

外に出たおかげで落ち着きかけていた意識も脈も、瞬く間に眩んで乱れそうになる。

「そんなに驚かれると、来てはいけなかったかと思う。」

こちらへ歩いてくる彼の足先が縮める距離は、もうどれだけもない。鋭敏で幾らか穏やかな眼差しがはっきりわかって、まるで射られたような錯覚を抱いた。

「いえ、そういう訳では…」

きちんと顔を上げていられない。恥ずかしさと覚束なさが、否応無く私を攻める。
ゆるゆると目を落として途中、ロングタキシードの長めの裾を上げ気味にしてボトムのポケットに入っていた彼の左手が、そこからするりと抜けて私の胸の前へ差し出された。
その掌に、一旦薄らいだ昨日の感覚を思い出す。
じわりと熱を帯びていく背中。けれどそれより、この手の意味は…? 

緩く顔を上げ、目で尋ねて。
私の目を真っ直ぐ受け止めた手塚さんは確かめる様子で微かに首を傾げる。

「座るつもりだったんだろう?」
「あ…、はい。」
「それなら足を取られないように。」

さっきと同じ筈の声が、ずっと優しげに聴こえた。

「…ありがとう、ございます。」

そっと右手を置くと、長い指が緩く動いて包むようにこの手を握る。それほど強くない、けれど確かな手の感触は、昨日よりもずっと暖かい。

「足元に気をつけて。」
「はい…」

ベンチを前にしたその一瞬、眼鏡の奥の瞳が微笑んだように見えて、大きな音を立てた胸に思わず視線を外した。「座ろう。」と告げた声も優し気に、そんな私の胸をノックする。

「やっとゆっくり話せるな。」
「もう、大丈夫なんですか?」
「ああ。」

多分、口数は少ない方。でも極端に少ない訳ではなくて、間を取りながらその中にちゃんと意味を含ませている。さっきの、挨拶で話した時もそうだった。
大人の会話、遣り取りを知っている───そんな印象。

「会場のお客様たちは…?」

出来る限り余裕を持っていたくて、心持ち軽めの口調で訊く。私の問いに手塚さんは、落とし気味にした視線をすこし先の地面へ向けた。

「元々こういう場は得意じゃないんだ。マネージャーが対応してくれている。」

華やかな席を好むタイプではないだろうと昨日の初見から感じていたから、そのままの答えが返ってきたことで無意識にほんの少し、笑みが声になる。

「私もそうです。」
「君も?」

僅かに驚いた気配を声に混ぜた彼の、眼鏡の奥の瞳がじっと私を捉えて。
気のせいか頬が熱い。

「ええ、場の空気にあたり易くてすぐ飲まれるので、顔に出てしまったり、臆してしまったり。」
「それで昨日も泣きそうな顔をしていたのか。」
「……」

妙に納得した手塚さんの声と、その声に思い出す昨日の失態の数々から恥ずかしさが沸き上がって、思わず下を向いた。
いろんな事が思うようにならない恨めしさを抱く。なんだか自分の拙さを手に取って見ているようで、心の中で項垂れて。
そんな萎れた耳に、ほんの僅か、喉の奥で笑った気配。

「いや、いいと思う。」

耳に居場所を作りつつある落ち着いた声や口調はやっぱり微かに甘い。

「嘘がないということだろう?」

知らず知らず顔を上げて彼を見れば、鋭さを解いたその目元がうっすらと微笑んだ。

和らいだ表情と続いた声で、明らかに乱れる脈。眩みそうな意識も。

もう心を繋ぎ止めておく術も費えてしまいそう。
こんなに惹かれているのに、もう手塚さんの好意もしっかりと感じているのに、まだ抗わなければならないなんて、彼との差異がただ恨めしい。
けれど、好きなだけで突っ走れるほど、青くも若くもないから…

──いっそマイナスになれば苦しくなくなる?

「でも、嘘はつきますよ。」

今の私そのままの言葉を口にした。
不意を突かれた様子でゆっくりとこちらを向いた手塚さんは、初め意味を探るように瞳を凝らし、そのあとなぜか目元をふっと緩める。

「そうなのか。だがこれで君が嘘の吐けない人だと分かった。」

…どうして

「嘘の上手い奴ほど誠実振るのがセオリーなら、その逆も同様だからな。」

上手く逃げられないんだろう……

意図したことと真逆の言葉と反応は、項垂れがちに目を伏せさせる。まるで難無くあっさりと受け入れられて、口惜しい気持ちにもなれない。

「……」
「今も不安げな目をしているな。何を不安がっている?」

覗き込む声。気遣う気配。
そんな何気ない仕種さえ胸を煽って、またふるりと心が震えた。
視線を少し上げた目に映る、答えを待つ様子の間近な瞳はレンズを通していても深くて艶やか。
ざわつく胸に、何かを思ったり考えたりするより早く、躱すように目を外して。
その代わり、焦点を彼の向こう側の肩口あたりに結んで小さく微笑む。

「まだ慣れていないので…。」
「それは、この場に?それとも俺に?」

静かな口調で彼が告げた言葉を確信的に感じたのは、結局何も隠せていないことを自覚しているから。

「どちらも…と言ったら?」

そして牽制のように探る言葉を投げ掛るなんて、自分がこんなに狡猾だったのかと後ろ暗い気持ちになる。
遠かった視線の結び目をその瞳に合わせて見る手塚さんの表情が、距離を縮めているように見えるなら尚更。

「そうだな、これから慣れてもらおう。」

“これから”という一言が酷く耳の内で響いた。

「……」
「先ず、君の名前を教えてくれないか?」
「名前、ですか…?」
「ああ。昨日、途中で撮影が終ってしまっただろう。」
「そうでしたね……」

すっかり忘れていた。まだ名乗っていなかったと。
別に名前を言うぐらい、普段ならどうということもない。むしろ名乗らないのは失礼に当たる。でも、今回に限ってとても言いにくい。
名前という特定の何かを言い当てる最短表現を告げれば私の輪郭が鮮明になって、急に現実味を増すことになる。それは避けた方がいい気がした。
狼狽さながらに目を膝の上に落とし、どうしようと考え。

「あの、職場では、名前よりポジション名や愛称で呼ばれてます。」

口にした職場という単語で境界線を示してみた…けれど……

「複数あるチームの一つでチーフデザイナーをやっているので、チーフ…とか…───」

周助に訊けば簡単に分るだろう名前を、それでもなぜ直接私に訊いたのか、彼の気持ちを思うと切なくて、これ以上言えなくなってしまった。

「ごめんなさい、踏み込むことが怖いんです…。」

目と鼻の奥には、はっきりとした違和感。
それを押え込むことは仕事でも私生活でも数え切れない程あったのに、どうしてだろう?今は必死にならないと出来ない。

「そうか…。」

そして静かに、本当に静かに、手塚さんの声が幕を引いた。
こんなに短い時間で火が着いたのだから、私の気持ちも手塚さんの好意も、きっと消えるのは早い。
もしかしたら数日とおかない内に薄らいで、しばらくすれば思い出すこともないかも知れない。
それぐらいで丁度いいと───

「でも、熱は下がりそうもない…。」
「…え?」

「なんでもない。独り言だ。」

おもむろに立ち上がった手塚さんの影が幾つもの明かりに照らされて重なり、ゆったりと形を変えながら僅か先の水辺へ移っていく。
小さく呟いた声の真意は、彼がはっきりと独り言と言ったことでそれ以上訊けなかった。ただ、声と一緒に落ちた吐息だけはしっかりと耳に響き、断たなければいけない彼の記憶と共に、切なく辛く胸を撃つ。
目で追い掛けた広い背中も耳に残る声も、深い瞳も。

水の遥か上には丸を少し欠いた、うっすらと黄色を敷く月。
ふと、英語で“極めて稀に”という意味の熟語、once in a blue moonを思い出した。手塚さんの鋭敏な印象と希有な青い月のイメージとが、ぴたりと重なって。

「手塚さんはご存知ですか? once in a blue moonの由来。」

立ち上がってドレスの布をつまみ歩き出すと、私の声に振り返った彼の左手がさっきと同じように伸される。
一瞬躊躇ったけれど、その手にまた右手を置いた。
引き寄せられた腕に心が小さく哭いたことには気付かないふりをする。

「“滅多にない”の、か?」

仰いだ瞳には、微かに切ない色。
後先考えずに感情に任せられたらどれほどいいだろう? 真剣にそう思った。でも、それができないことは、私自身良く分かっている。
だからせめて、精一杯の笑顔で。

「ええ、そうです。単語のblue moonの起源は諸説あるようですけど、熟語のonce in a blue moonの方は本当に青い月から来ているんだそうです。」

なぜこんな話を手塚さんにしようと思ったのか、自分でも良く分らない。実は人からの又聞きで記憶も曖昧だったりして、間違っているかも知れないし。それでも、私の中ではきれいに重なった、月と手塚さんとその熟語の意味に、ただ伝えたい衝動を覚えた。

「大気中の塵の影響で本当に月が青く見えることがあって、かなり稀でいつ起こるか分からないけれど、青い月はちゃんと───」

最後まで声を外に出せなかったのは、まだ触れていた彼の手が私の手をきゅっと握ったから。

「手塚さ…」
「明日、また会ってくれ。」

真っ直ぐに向けられたレンズ越しの瞳は少し苦しげな眼差しを投げかける。

「昼間なら出来る限り都合をつけるし夜は何時でも構わない。」

その苦しげな色に捉えられ、視界が霞んでしまいそう。

「性急に距離を縮めようと思っている訳じゃないんだ。今は名前も明かさなくていい。」
「……」
「これで終りには、とても出来そうにない。」

痛みを伝える声が、微かに曇ったように感じられた。
そう、全ては昨日のこの声から。この張りのある低音と落ち着いた口調が、私の心に一石を投じたのは紛れもない事実。なのに、そんな心地良い声が曇ってしまうなんて。
それだけで胸はキリキリと締め付けられ、無意識に顔を上げて手塚さんを見詰める。その先の酷く真摯な瞳に押されるように、唇が小さく動き。

「今週末…」

何も考えずに、ただ思い付くまま。

「仕事で一山控えているんです。明日は午前中、外せない予定が入っていますし、午後も週末のために出来るだけ詰めておきたいので空けられません。」
「ああ。」
「ただ、夜は…」

私は何を言おうとしているんだろう…

「“夜は”?」
「夕方から入っている打ち合わせが終った後、少し…一時間程度なら…」

──今、私、何を… 

「十分だ。何時からならいい?」

もう本当に救えない。これで彼と距離を詰めるようなことになれば、きっと越えられない住む世界の違いや釣り合いの取れない現実に悩んで心を折るだけなのに。
だからこんなに怖くて苦しくて、不安で仕方ない。
それでももう、これほど急激に惹かれ合って触れた心を止める術は、多分ないから…。

「打ち合わせが終ったら一度事務所に戻るので、最短で19時、遅ければ20時、ぐらい…。」

胸の音が速い所為で自分の声も朧げ。
感情のまま走り出そうとしている自分の弱さを心底恨めしく思った。

「じゃあ、余裕を持って21時に。場所はこのホテルの最上階にあるバー・ラウンジ、一つしかない筈だ。どうだろう?」
「ええ…。でも、確約は…」
「構わない。」

まだ曖昧な私の弱ささえ受け止めるように頷いた手塚さんは、握った手の力を少し強める。

「一応、俺の部屋のルームナンバーを。」

そのままそっと耳に触れた唇が、四桁の数字を告げる。

「もし明日君の足が向かなかったとしても、三日後正午のチェックアウトギリギリまで待っている。」

耳元を離れる前、切なく甘く囁いた。
離れていく指も、握った手に緩く絡まって、名残り惜し気に後を引く。
彼が触れた耳と手には、はじまった証のように淡い熱。
眩んだ意識と視界は正常に動くことを拒んで、仰いだままの彼の輪郭をぼかす。

鼓動のあまりの速さに息が上がりそうだった。
だからただ、自分を繋ぎ止めておくために身体の前で手を握り、辿々しく目を落としてその時。

「手塚、」

会場に繋がる道の方から彼を呼ぶ声が無言の私たちの間を走った。弾かれてそちらを見た手塚さんと同様、私の心臓も大きく跳ねる。

「──乾、どうした?」

その瞬間、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。手塚さんの声で明らかになった声の主人が、乾さんで良かったと。

「ああ、そろそろ閉めるらしい。」

距離を置いたままの乾さんの声に、なんとなく胸の落ち着きを欠いて、この場では必要のないかも知れない会釈を、小さくした。
それに答えて会釈を返してくれた乾さんは、何事もなかったと言いたげに身体ごと足を歩道の方へ返す。

「なるべく早く戻ってくれ。」

乾さんの背中越しに端的な一言を聴き。
その背中を軽く目で追った手塚さんが、深い吐息と共にゆっくり肩を上下させたことで、微かな鈍い痛みを覚えた。
やっぱり踏み止まるべきだったんじゃないかと、そんな気がして…。

「行こうか。」

会場に戻ることを促す声は、しっとりと落ち着いてほのかに甘い。差し出された手もその意味を知っていれば、触れる前から優しいと分る。
三度目に預けた指先で、その体温を今まで以上に暖かく感じ、それがこんなにも心を溶かすのなら、抗う理由なんてもうどこにもないと思ったけれど。

「手塚さん、待って。」

歩道を抜ける途中、まだ木薔薇の垣根の高い内に、どうしても手だけは離しておかなければいけないと思ったのは、何だったのだろう。

「どうした?」

呼び止めた私の声に振り返った彼が理由を問う。勿論、呼び止められた理由だけを。

「いえ、手を…。」

手を引こうとして微かに力を入れた私に意味を察したその手が、ゆっくりと離れて───僅かな間、見詰められた後の、思い切るように前へ向き直った仕種に、また少し、胸は痛みを訴えた。

──明日、ちゃんと行くことができる?

自分に訊く答えは、自分でもまだ分らない。



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