昨日の余韻がまだ覚めない心は、朝から全てに覚束ない。なのに今日は端から大きいトラブルに見舞われた。
朝イチで来た印刷会社からの電話も、さっきクライアントからきた連絡もそう。
重なる時は重なるのかも知れないけど、それにしたって差し迫った事ばかりで胃が痛くなりそう。
そしてウチのチームは一瞬で火事場に変わった。
今週末、元々一山あるし、きっとスケジュールが押すことを思ったら多分今日も帰れない。
昨日、一度家に帰った時に着替えを多めに持ってきて正解、近くのスパの回数券を買い足したのも同じく正解だった。
最近少し落ち着いていたから「三日帰らないのはどれぐらい振りだっけ…?」なんて考えて。
──無理、だよね…。
思い出さない筈がない今日の約束へ、考え事の焦点は移る。
こういう状況だと途中で抜けるのは厳しい。それに、控えている山の一つは伊織ちゃんに初めてデザインの大枠と作業の大体を任せることにした案件で、最後まできっちりフォローをしなきゃならない。
昨日「少しなら…」なんて言ってしまったけど、それ自体が間違えだったと思う。
でも、まだ踏み込めない怖さから、行かなくてもいい正当な理由付けに胸を撫で下ろしているのも確かで。
約束を反古したら、手塚さんはどう思うだろう…。
打ち合わせで外へ出る準備をしながら、夜のその時の彼を思い、無意識に小さな息が落ちた。それに答えるように隣から「チーフ、」と呼び掛けられる。
「お疲れですね…」
伊織ちゃんの気遣いがちな声に内心はっとして。
手塚さんが関わるようになったこの数日、何度こんな風に息を落としたことか。
これが恋に落ちた副作用だと言えば言えなくもないけど、結局はどことなく気持ちが不自由と言うこと。
しっかりして、私。と、にっこり笑って隣を向く。
「ううん、大丈夫よ。トラブルが続いて少しナーバスになっただけ。心配掛けてごめんね、ありがとう。」
「…でも、今週ずっとそんな感じですよ?」
気掛かりだと言わんばかりに大きく眉根を寄せる彼女。気が効く子だから良く見ている。
「そうね…。今週は初めからバタバタと慌ただしくて、色々と落ち着かないから。」
取り繕っても多分見透かされてしまうだろうと笑顔を小さくして、デスクの上に視線を戻しながら曖昧に返す。その意味は私しか分らなくていい。
「じゃあ、いってきます。何かあったら携帯に連絡下さい。」
椅子を引いて立ち上がり、書類を入れたアルタートケースとバッグを取って、「いってらっしゃい」の声を背に出入り口へ向かった。
先方の社屋はこの辺りの中心地にあって、そっち方面にはウチの事務所のクライアントが多く所在している。
取引先の代理店や、周助の所属する撮影会社もあるから足を向ける頻度も高い。三日に一度は行っているだろうか。その割に、仕事で出向く事ばかりのその辺の地理には極限られたエリアしか明るく無くて、先日は新しく出来たらしい話題のお店の場所を尋ねられても全く答えられなかった。でもまぁ、実際、仕事で足を運ぶことばかりだと誰でもそんなものかも知れない。
「では、色校正に立ち会っていただくということで、日付けのご連絡は後ほど、確認でき次第いたします。」
「はい、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
丁寧にお辞儀をして、先方が背を向けたのを確認してから踵を返す。再提出したカンプが通った後はほっとして気も緩みがちになるから、逆に引き締めないといけない。
高めのパーテーションで区切った会議スペースを抜けて出入り口へ向かい、ドアを引いてもまだ緊張の糸は緩めずに。エレベーター待ちもそれほど長くはなく、すぐに外へ出ることが出来て、やっと深めに息を吐いた。
他の広告やパッケージなどの相談も受けた今回、あれこれと話を聞き、次の仕事に繋がりそうで良かったと思う。ただ、思いのほか長くなった。だからというか、少し気疲れしたのは否めない。
歩きながら腕時計を見れば、時刻は十一時半を過ぎたところ。
これからお昼の時間なら、いつもはついでにどこかでランチを取ったりもするけど、今日は早く事務所に戻りたくて迷わず駅への道を選ぶ。その時ちょうど、携帯のコール音がバックの奥でくぐもって響いた。
歩きながら携帯を引っ張り出せば、そこには“不二さん”の文字。
どんな用件かアタリを付けられないなりに記憶の引き出しをところどころ引っ張り出しながら、通話ボタンを押してからビルとビルの間に寄って。
「もしもし、不二です、」
聴き慣れた声が耳に通る。
いつもなら第一声の「お疲れさま」を言わないなんて、どうしたんだろう?
「おはようございます。」
「大至急確認して欲しいことがあるんだ。」
私の声も確かめずに用件を伝えるその声は、はっきりと焦りの色を見せている。けれど一昨日も似たような状況があって、見事に引っ掛かったから、ちょっと慎重になってしまう。
「確認?」
「実は、そっちに送った画像なんだけど、“アシスタント”が出し間違えて、こっちに本チャンを残したらしくてさ。」
「あ、そういうこと…。」
「忙しいのにすまない。」
彼に付いているアシスタントは確か木澤さんだけで、普段ちゃんと名前を出すし、本当にそうならこんな言い方はしない。つまり、間違えてしまったのは周助自身。
オンラインで画像データを送る操作にまだ慣れないと言っていたから、間違えてしまったんだと思う。
「どの案件か判らないけど、いま外にいるからすぐは無理。」
「…そう…。」
「でも、ちょうど近くにいるから受け取りにはいけるわよ?」
「…こっちに?」
苦笑気味に笑った声がして、そのあと潜めがちに「君も意地が悪い。」と続く。その声にくすっと小さな笑みが漏れたのは、単純に、普段からかいがちな彼の先手を取ったから。
「じゃあ向かいます。ロビーに着いたら連絡するわ。」
いつものあなたの方が余程意地悪だと思ったことは口にしなかったけど。
「悪いね。」
「いえ、お互い様。」
彼に今の笑みが聴こえていなかったことを、少しだけ『良かった』と思いながら電話を切った。
「携帯を手に、どうしようかと真剣に困ったよ。」
さっき近くにいることをすぐ言わなかった私へ、周助は小言よろしく零す。
彼の会社が入っているビルはさっき電話した場所から十分も離れていない所にあるオフィスビルで、フロアは違うけれどクライアントも入っていたりする。綺麗だしロビーも広いし、流石、一等地の先鋭ビルという感じ。
それとは対照的に、エレベーター脇の奥まった壁側に立って当該の画像データが入ったCDを差し出す彼の表情は恨めしげで渋い。
「先に言ってくれたら冷や汗かかずに済んだんだよ?」
「たまにはいいんじゃないかと思って。いつも私ばかりだから。」
しれっと切り返して受け取れば、仕方ないと言いたげな息が周助の肩から落ちた。
「惜しいな。仕事が絡んでなきゃ、そういうのも可愛いと思えるんだけど。」
こういうことを軽口と言うんだと分かっていながら、少し気になってしまう。けれど特別意識するような言葉でないことは確かで。
「仕事絡みで良かったわ。」
「ああ、躱された。ま、いいや。お詫びに昼飯でもどう?」
受け取ったCDをバッグへ仕舞いながら軽い口調で返すと、彼は楽しそうに笑ってそんな殊勝なことを言ってみせた。今日じゃなかったら受けられるのに、間が悪い。
「嬉しい話だけど、残念。すぐ事務所に戻りたいの。」
「すぐ? 何かあった?」
「ええ、朝イチでトラブルがいろいろ。」
「そりゃ、また…。朝イチからトラブルとは大変だね。じゃあ、夜はどう?」
夜、と言われて脈が小さく跳ねる。
手塚さんとの約束も無理だと思っていてるぐらいだから、周助の誘いを受けられる訳もなく…。
胸中で断りの言葉を並べてみて、手塚さんの面影が浮かんだ。その面影に、周助を仰いでいた視線は緩く落ちる。
やっぱり…行きたい…───
「どうしたの? 都合悪い?」
「…あ、ええ、」
周助がここにいることも忘れてしまうなんて、どれだけ気持ちを走らせているんだろう…。
躊躇いがちに上げ直した目で捉えた周助は、妙に優しげに微笑んでいた。左胸が痛い。
「…トラブル処理で多分スケジュールが押すから、今日も事務所に泊まり込むと思う…。だから…」
「夜も無理、と?」
「ええ、」
「そういう理由なら無理には誘えないな。」
苦笑混じりの声は、ほとんど独り言だった。だから、ひと際大きく口の端を上げてうっすらと微笑み、お詫びに代えて頷けば、「じゃあ。」と彼の右手が上がる。
その笑顔も上がった右手も、抉るように胸を刺して。
周助が手塚さんの友人なら、彼にいろいろと話を聞けば早いと頭では分かっていて、なのにこの唇はかたくなに手塚さんの名前を形作ろうとしない。
その意味は私自身、一番分かっている。だからこそ切なくて辛い。
周助の何かを、今の私たちの関わりを、こんなに痛く感じたのはそれが初めてだった。
どうしよう…。
休憩室の椅子に一人座って手にする、コーヒーのたっぷり入った紙の保温カップへ落ちる息は重たい。
午前と午後とを何とか乗り切った今、約束の時間まで一時間を切ってもまだじたばた考えていた。
昼の代わりに取った小休憩をそれで潰すなんて、諦めが悪いというか潔良くないというか。
行けない理由が仕事に追われているからという裏表の無いものなら、確かに気持ちは軽くなっているのに、テーブルの上で手にした携帯電話のボタンを何度も押しかけては止め、無意味に持て余す。
きっと無理だと判ってから、行けないことを連絡しようと何度も思った。でも、その度にスケジュールの空きを探す自分に気付いたら、ホテルの代表の電話番号を押す気にはなれなかった。
「もう決まってるのに…。」
好きなコーヒーの匂いも、今回はただ芳ばしいというだけ。気持ちを軽くしてくれそうにはないし、ぽつりと小さな呟きが漏れる。
悪あがきするこの気持ちを切り替えるため、テーブルの上に置いていたカップに手を伸ばして、しっかり捉えられなかったそれが手から滑り落ちてしまった。
「あっ、」
こてんと転がったカップは私の方へ口を向けがちに、中身を全部空けて。テーブルの上が瞬く間にコーヒーの海になる。
慌ててすぐに立ったけれど、クライアントに会う時用のオフィスカジュアルな黒のパンツにしっかり零れた。携帯は手に持っていたから辛うじて無事。それなら先ずは片付けるのが先と、手をテーブルに伸す。
幸い、床まで零れてはいなくてティッシュで拭くだけで片付いた。それはいいとして、今度は着替え。
すぐに軽く洗わなければシミになってしまうし、早急に着替えようと立ち上がり、更衣室へ向かう。
こういう時のために用意している訳じゃない着替えはここで着るために置いてあるジーンズしかない。靴だってヒールのない、ぺたんとしたデッキシューズ。
この後、もう本当に仕事へ専念することを考えるなら、これが一番楽だと思う。
速やかに着替えて手に薄手のカーディガン、紙バッグに入れたスーツを持って更衣室のドアを開けて。
──もう三十分を切ってる…
チームのスタッフ達が作業する向こうに、壁の時計の指している時間を見て、シフトしかけた気持ちは即座に引き戻された。無意識にきゅっと力の入る口元。
いよいよ行けないことを連絡しなければならない。
一時間前でもギリギリなのに、結局こんな時間まで引っ張った事を悔やむ。もっと早くにさっぱりと連絡してしまえば良かったと。でも、今更そんなことを思っても始まらないし、これ以上はどうやっても延ばせないのだから足掻かずに伝えた方がいい。
気持ちを落ち着かせるためにも非常階段で掛けようと、紙バッグをロッカーに仕舞ってから意図してしっかりと出入り口まで行き、静かにドアを引いた。
えっと…代表番号…
午前中に登録済みの電話帳から番号を呼び出す。
その数字の列は今日何度もディスプレイに映したから、もう暗記してしまった。それなら電話帳から引っ張って来なくても良かったんだけど、指押しした番号で掛けるのは進んで断っている気がして出来なかった。
だから、電話帳を辿って。
重いドアに遮断された非常階段のしんとした空気は、操作音を切ったボタンの動きを逐一取り上げる。その空気自体ちょっと尖っていて、頬にひりっと痛い。呼び出したホテル名と代表番号に照らされた手塚さんの面影が、頬に触れる痛みを助長する。そしてやっぱり躊躇う指。
通話ボタンを押すという至極簡単で動作の無い事にこんなにも指が引っ掛かるのは、それだけ熱を上げている証拠で…。
仕事を理由に行かないことを選んでも、心は嘘を吐けない。現に今日、些細なことでも彼との記憶を引っ張り出し、何度行きたいと思っただろう?
なのに、まだ私は逃げようとしている…
ゆるりと顔を上げて、脳裏に浮かべた彼を想い──そして昨夜の、今は名前も明かさなくていいと言ったその言葉と切なげな声が私の心に触れ、そっと撫でた。
同時に、『これで終りには、とても出来そうにない。』と、あの時のまま…。
次の瞬間、手は携帯をオフにして非常階段のドアを勢い良く引いていた。
重いドアの閉まる音が酷く大きく後ろで響いたけど、そんなことはどうでも良かった。
そのまま事務所までの長くない廊下を走って。
「あ、チーフ。おかえりな──」
「ごめんなさい、一時間だけ外に出ます。」
伊織ちゃんの声を遮って外出を伝える。
その「ごめんなさい」が何に対しての謝罪なのか、自分でも分っていない。
一時間でどれだけの作業が出来るかを思えば自分で自分の首を絞めるようなものだし、まだ作業を続けているチームスタッフを差し置いて私用で中抜けするなんて、総括する役職を放棄したのと一緒。
でも今は、考える時間さえ一秒だって惜しい。
お願い、全部後回しにさせて───────
「何かあったら携帯に連絡下さい。」
急いで身支度をして…と言ってもバッグを取っただけなら椅子にも座らずすぐ踵を返す。いつもとは違う様子を感じたらしい伊織ちゃんの、少し驚いた表情も躊躇いなく視界から外して。
「はい、わかりました。いってらっしゃい。お気を付けて。」
見送りの言葉に一度立ち止まって小さく頷きデスクを離れた。
出入り口の脇の予定表ボードに書いたのは“外出”。それ以外は何も書かなかった。
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