Kinari

ココア・パウダー 1 





「ホントに?ホントにダメなの?」
『ごめんなぁ、 。』

携帯を耳に押し当てて、彼が言った言葉を確かめる。
会社のビルの非常階段で、微かに声を険しく話すのは明日のデートのこと。

『明日は穴、あけられんへんのや。』
「14日はあのお店に行こうって、もう一ヶ月も前から決めてたのに…。」

返ってくる答えが分かっていても、言わずにはいられない。

『この埋め──は必ず─から。、──な。』

ノイズのせいで良く聞こえなくても、侑士が何を言っているのか充分過ぎるほど分かるから。
聞こえないと言わないかわりに確かめようともせず、大きく溜息をついてもういいわと電話を切った。

「明日のデートが流れたら、丸ひと月会ってないことになるのよ?」

切った電話のディスプレイに映る、通話時間“2分23秒”の表示を見ながら呟けば、電話ですらこんなに手短に終ってしまう私達の関係を改めて考えなきゃいけない気さえして。

「3年目は節目っていうけど、恋愛でも同じなのかしら…」

項垂れるように視線を落とし、携帯を力なく握った。



気落ちしたままお昼をとって、戻ったデスクには午前中片付けられなかった仕事の書類がどっさり。
いつもならうんざりするところでも、今の私には好都合。なんて思う。
一種の現実逃避と言えなくもないけど、この仕事を片付けるのが今の優先事項であることに変わりはないし、ほどほどの仕事量ならきっと、侑士とのことをいろいろ考えてしまうから。

取り掛かろうと、モニターに目を向ける。
けれど、視界の端に卓上カレンダーを捉えて、モニターに向けたはずの目はそのまま静止してしまった。

カレンダーの14の数字には、赤い小さな○印。
それをつけたのは一ヶ月も前で。

(あなたは営業だから取引先が最優先なのは分かるけど…)

電話やメールだけでひと月過ぎたことに、そんな考えが浮かぶ。
彼が営業職を考えてると知った時から、なかなか会えなくなるだろうと予想はしていた。
でも、ちょうど3年前の、大学4年の2月14日。
お互い就職してもちゃんと時間を作ろうと話したことを、私はできる限り守ってきたから。

(すこしは私にも時間、頂戴…。)

誰にも気付かれないように極ちいさく、侑士…と唇で形作った。






慌ただしく過ぎた午後。

あっという間に終業時刻を向かえ、片付かなかった仕事のためにいくらか残業して、会社を出たのは7時過ぎになった。
予定では、どこかに寄って明日侑士に渡すチョコを選ぶつもりだったけれど、なんだか気が抜けてしまって真っ直ぐ帰ろうと決める。
今日は週初めだし、終らなかった仕事の書類も鞄に入っていたし。

帰りの電車の中で意味もなく携帯を開けたり閉じたり。
思うのはやっぱり侑士のこと。
いきなり電話を切ったからメールのひとつも入っているかと思ったのに、彼は何もしてこない。

(付き合い初めの頃は用がなくてもメールとか電話とか、くれてたのに…。)

ちょっとだけ悲しくなって、心の中で侑士のバカ…なんて呟いてみる。
それでも、悲しくなってるのはきっと私だけなんだと思ったら、なんだか急に悔しくなった。

こんな風に気持ちがトゲトゲし出したら、何か作るのが一番。
今日は寒いしシチューなんてどうだろう?
温かいシチューなら心も温かくしてくれるから。





駅前のスーパーで色々と買い込み、家に帰って準備をして。
大きめのお鍋に沢山作ったシチューは上乗に出来上がった。

持ち帰った仕事を終らせたあと、またすこし食べたくなってキッチンに立つ。
火に掛ける前、いつもと同じように生クリームを入れるつもりで冷蔵庫に伸ばした手が、通り過ぎるはずのワゴンの上で止まった。

そこにぽつんとあった、トリュフキットが寂しそうに見えて。

スーパーで見掛けてつい買ってしまったけど、渡せないのに手作りもなにもないと、放り出したままにしていたトリュフキット。
その、大きめの木の箱を眺めながら、思う。

そんな風に見えるのは、きっと今の自分がそうだから。

やっぱり侑士に会いたい。
ちゃんとチョコだって渡したいし、その髪にも、手にも、背中にも…触れたい。

会えなくて、寂しくて。
それでもこんなに好きで…。

そうやって思えばやっぱり悔しくなって、軽く腕捲りをする。

「あなただって放置されるために作られたんじゃないものね。」

手に取った箱に話しかけるのは滑稽かも知れないけど、気分が上向いたようでちょっと楽しい。
丁寧に箱を開けて材料を取り出していけば、中にはコアントローやラムのミニボトルまで入っていて、値段の割りに結構本格的なことが伺えた。

こんなに好きにさせておいて、放っておくなら美味しく出来ても侑士にはあげないんだから。

約束を流されたささやかない仕返し…なんて、軽い悪戯をする子供のような気持ちで。
絶対美味しく作ってあげるからね。と、トリュフキットに心の中で約束した。



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