ココア・パウダー 2
意気込んで作りはじめたものの、実はトリュフを作るのはこれが初めて。
過去に何度もチョコは作っていたけれど、チョコ作りとは勝手が違って上級者向けのものらしいことが今回良く分かったという感じ。
それでも中に入っていたメモや、ネットで調べた作り方を見ながらなんとかガナッシュを作り、チョコレートのコーティングまでやって。
味見にと一つ口に入れれば初めてにしては上出来な美味しさに、思わず小さくガッツ・ポーズをしたりして。
すっかり元気にしてくれたトリュフキットに感謝しつつ、あとはまぶすだけになったココア・パウダーを取る。
バットはないからお皿を代わりに、袋を開けようと指先に力を込めた。
でもなぜか。
端が伸びるばかりで上手く開けられない。
ハサミを使いたくても、コーティングでチョコレートがまんべんなく付いた手じゃ使えなくて。
もう一度強く引っ張った。それこそ渾身の力で。
途端、袋が弾けて。
「あ…。」
濃い茶色がシャワーのように、ふわっとキッチンに舞った。
見事に頭の上から浴びてしまったココア・パウダーは、お皿に運良く入った分を掻き集めても多分一個分くらいにしかならない。
残りは派手に撒き散らしてほとんど床の上。
「ああぁ…。」
思わず声に鳴らない声が零れ、その場でしゃがみ込んだ。
仕方なく、ざっと集めようと体を軽くはたき、手を洗ってタオルを手にする。と同時に耳に馴染む一番好きな曲の着信音が奥の部屋に響いた。
(今ごろ電話してきたって遅いわ。)
そう思っても逸る気持ちは隠せない。
床の上をそのままに、部屋までそろそろと歩いて通話のボタンを押せば。
『、』
恋しい人のその声に、心はすぐに甘く溶け出す。
つい力が抜けてしまいそうになって、携帯を握った指先にきゅっと力を入れた。
「今帰ったの?」
『いや、今からそっちに行くつもりなんやけど、』
「えっ!?」
『なんや、その驚き様。ひょっとしてまだ帰ってへんのか?』
遠めに聴こえる声で外を歩いているらしいことは分かったけど、ちらりと見た時計の短針はもう11時過ぎを指していたから。
「家にいるけど…こんな遅くにどうして?今日は月曜だし。」
『どうしてて、あとすこしで14日になるやろ?』
「14日って…」
『とにかく行くから。ほな後でな。』
「あ、侑士っ、」
微かに弾む息の後ろに、聞き慣れた、踏切の特徴的な警報音が響いたところで電話は切れた。
「行くから。って…もう、すぐ下まで来てるんじゃない。」
切れた携帯のディスプレイには、通話時間1分07秒の表示。
「だったら直接来ればいいのに。」
やっぱり短い電話は、短いからこそ。
嬉しさだけを確かなものしてくれる。
いつも不意打ちばかり仕掛ける彼は、もしかしたら私をいじめるのが好きなのかも知れない。
そんな風に考えてしまうほど、彼には困らされたり驚かされることばかりだけど。
短いから、大切な言葉を確実に。
会えないから、会いたくて走る気持ちを。
侑士は誰よりも真っ直ぐ伝えてくれる。
そう。貴方は誰よりも大切な人。
「侑士が来るなら早く掃除しなくちゃ。」
口元を緩めてキッチンに戻り、モップを持った。
そしてふと気付く。
床に撒き散らしたココア・パウダーよりも作りかけのトリュフを仕舞う方が先だったと。
出来ていなくてもきっと侑士は食べたがるから。
モップを置いてお皿を手に取った時。
鍵を開ける音がして、すぐに玄関のドアが開いた。
家は玄関とキッチンが隣接するタイプの造りになっているから逃げようがない。
なんてタイミングの悪い…。
「今日も寒いなぁ。春まだ遠し、やな。」
「…ホントね。遅くまでお疲れさま。」
靴を脱ぐより先に、彼の、見下ろす視線が私の手元に注がれる。
もう正に“アウト”
「、チョコ作ってくれたん?」
「これは…」
口ごもる理由を察して欲しいと思う間もなく、私と、私の手元のガナッシュ、気付いたらしい床のココア・パウダーに視線を往復させた侑士は、何かを含んでニヤリと笑ってから長身の背中を屈めた。
彼がこういう顔をするのは何か悪さを考えてる時。
仕舞っても、出来上がってないからダメと言っても、きっと明日の朝には無くなってる…。
しかも、一ヶ月ぶりなのに喜ぶことも儘ならないなんて。
肩で息を落として冷蔵庫のドアを開けると、もうキッチンに上がっていた侑士の手がドアの端に掛かった。
「なんで仕舞わなあかんの?」
「これは侑士にあげるために作ったんじゃないの。
いつも頑張ってる自分に作ったの。
だから、侑士に食べられたくないから…仕舞うの。」
必死の言い訳がどこまで通じたのかを考えるより早く、彼のしなやかな指はドアを閉じて私の手からお皿を取り上げた。
息の掛かるほど近い距離で、眼鏡の奥の紫紺掛かった瞳が微かに笑う。
「そーか、残念やなぁ。
の手作りチョコ、食べれるて思うたのに。そんならこっちのココア、貰おうか。」
取り上げたお皿を、ことり。とシンクの横に戻して、侑士は私の頬を舌先でひと嘗めした。
落としたつもりのココア・パウダーが、彼の舌先に触れて頬から僅かに落ちる。
「や、ちょっと、侑士!」
「お前、ほんまにかわええな。」
楽しそうに、愛おしむように、こんどはハッキリと笑顔を見せる侑士。
やられた。と思った。
こうやっていつも、私は侑士に翻弄される。
どれだけ私が策を講じても、それを歯牙にも掛けず平然とあしらう彼にはもう、諸手をあげて降参するしかないのかも知れない。
それでもすこしぐらいは抗わせてよ…。
余裕の眼差しを向ける侑士のネクタイをぎゅっと掴んで引き寄せ、爪を食い込ませるくらい強く、背中を抱いて噛み付くようにくちづけた。
外さなかった眼鏡のリムが小さくカツリと音を立てても構ってなんかいられない。
自分から舌を差し出し、絡ませる。
すぐに応える侑士の口内も、しっかりと私を抱く腕も、熱く、強く。
瞬く間に私を切り崩していく。
こんな精一杯の奇襲ですら、彼にとっては好機でしかないなんて。
どうしたら貴方の全てを奪えるんだろう?
どう頑張っても白旗をあげなきゃいけない自分が恨めしくて、走り始めたお互いの鼓動を戒めるように唇を離した。
「なんや、もうお終い?」
「ええ。掃除しなきゃいけないし、明日もいつも通りだし。」
「せやなぁ。」
コートの衿に手を掛けてゆるりと肩から落としながら、分かったのか分っていないのか判断できないトーンで返す侑士は、きっとまだ何か企んでいる。
脱いだコートとジャケットをハンガーに掛けようとせず、部屋の入り口に無造作に置いた彼の、次の動作を気にしながらもモップを取って拭きはじめると、不意に、ボタンを外したワイシャツの左手がモップの柄を掴んだ。
「ココア被ったまま掃除しても意味無いやろ?」
すぐに右手は、部屋着の、それ程厚くないニットの脇にするりと滑り込む。
「ちょっ、侑士っ!」
「洗ったるから。」
「それ、順番逆っ!
普通は掃除してからお風呂でしょ!?」
「そんなんどっちでもええやん。ほら、服。」
「や、だめだってば!」
ゆるゆるとニットをたくし上げる手を押えて抵抗すれば、素早くも繊細な動きで深く腕を潜り込ませて。
撫でるように滑らせた指先で、彼はここから先の答えを聞く。
「…ズル、イ…」
「仕掛けたんはや。」
耳元で囁かれる言葉が本意じゃなくても、今の私にどうしたって勝ち目はない。
「…侑、士」
「お前に仕掛けられて冷静でいられる訳ないやろ。」
首筋を辿る唇のあまりの甘さに、私は呆気無く崩れ落ちた。
こうやって私は侑士に絡めとられ、溺れていく。
それでも自ら望んだことなら、何も後悔なんてしない。
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