最上階のバー・ラウンジって、確かフロアの一番奥って聞いた気が…。
以前一度何かで聞いたその場所を記憶に辿ってみて、ちょっと急がないといけないかも…と、にわかに焦る。
過去に同じフロア内の別店鋪の案件を手掛けたことがあったから最上階には何回か上がっているんだけど、あのフロアは結構広かった。複雑じゃないのは救いでも、エレベーターホールから一番奥までそれなりの距離を持っている。
腕時計に確かめる時刻は約束の三分前。本当にギリギリ。
きっかりに入り口へ滑り込めたら有り難いぐらいで。
デッキシューズに履き替えたのが好転に繋がってくれたらいいと、柔らかい到着音の後に開いたドアをすり抜けるようにしてフロアに出た。
多分もう彼はそこにいる。
約束の時間より早く来ていることだって十分考えられるし、それなら少しでも早く着きたい。
腕時計を見ることさえ足を遅くしそうで、ただ小走りに先を急いで。
視界の向こうに目的のお店の名前を捉えても、まだ足はそのまま。
入り口まで来てやっと止まり、一度大きめに息を吸ってドアを引いた。
「お客様、」
声を掛けてきたのはキャッシャー脇に立っていた、案内係かマネージャーらしいスタッフ。
きっちりネクタイを締めたこの人の慎んだ印象は、役職云々以上にここがホテルのバーで、知名度もそこそこあるからだと思う。だからというか、あまり深く考えずに「はい。」と小さく返事をしてその後、続いたのは「大変申し訳ございませんが、」という謝罪だった。
「当店では御来店の際、スマートカジュアルな服装をお願いしておりまして…」
「…スマート、カジュアル……。」
カタコトの日本語のように復唱したそれは、早い話が入店拒否。つまり、この店に今の私の服は合わないということ。
自分の身なりをゆるゆると確かめて、そういうことかと納得する。ジーンズとデッキシューズが引っ掛かったんだ。
「そうですか…。」
「申し訳ございません。」
深々と頭を下げられて、ちょっと困ってしまった。
きっともう約束の時間は過ぎていて、手塚さんも多分ここにいるから…。
「あの、待ち合わせなんですけど…。」
おずおずと伺うように声にする。
それに呼応して、当のスタッフははっきりとすまなさそうな表情を見せた。
「お待ち合わせを?」
「はい…」
「でしたらこちらでお探しいただけますか?」
声の後に促されたフロアの境まで歩いていく。すっかり気後れしておずおずと着いていく私は、端から見たらきっと滑稽にちがいない。それでも今は手塚さんを探すのが先。
「このような場所からで、申し訳ございません。」
「いえ…」
スタッフの謝罪を耳から耳へ流しがちに緩く覗き込んだ。
店内は、最上階という絶好のロケーションを最大限引き立てるために明かりを絞っていて、あまり見渡せない。首を伸しがちに視線を奥へ送った後、少し手前の席で人が立ってこちらに来るのを捉える。
「あ…、」
途中で鮮明になったシルエットのその人は、間違える筈のない手塚さん。
「いらっしゃいましたか?」という声に一度そちらを見てこくりと頷き、また手塚さんの方へ向く。足早に歩いてくる彼が目前に映ったのはその直後だった。
「どうした?」
私とスタッフに目を往復させた手塚さんは問いかけるように柔らかく、ここに留まっている理由を尋ねる。
「いえ、あの、」
「手塚様のお連れさまでしたか。」
彼を仰ぎ理由を伝えようとして、慌てたように確かめるスタッフの声に遮られた。その声の調子は明らかに焦っていて、手塚さんが特別な人だと裏付けているよう。今更ながら、彼との差のようなののを感じ、胸はキシ…と音を立てる。でもここで取り上げる訳にはいかない。
ぎこちなく頷いて、同時に。
「はい。」
「失礼しました。少々お待ち下さい。」
答えた手塚さんの声と、急ぐ様子で店内に入っていくスタッフと。その背中を僅かに目で追った彼はもう一度私を捉え、レンズの向こうで瞳を凝らした。
「何があったんだ?」
「ええ、ドレスコードに引っ掛かってしまって…」
場所を弁えずにこんな服装で来てしまったことを恥ずかしく思いながら苦笑して話せば、手塚さんの眉根が大きく内に寄る。
「ドレスコード? 入店を拒否されたのか?」
入店拒否だなんて、なんだかとても情けない。
「はい…。」
そんな心境を声にした私へ彼は眉根を内に寄せたまま、悔やむように息を声にして落とした。
「それはすまないことを…。知らなかったとはいえ、そういう店を指定して申し訳ない。」
「いえ、仕事着で来た私の方が余程。しかも遅れちゃいましたし。」
「いや、ちょうどだった。」
それが本当なのか彼の気遣いなのか、どちらかは判らないけど、どちらにしても安心する。眼鏡越しの和らいだ眼差しで、何も心配ないと言ってくれた気がしたから。
「出よう。すぐにチェックしてもらうから少し待っていてくれ。」
彼の言葉尻に被って、ドアの開く音がした。一瞬そちらを見て、入って着たカップルの女性客と目が合う。その人もやっぱりジーンズではなく、タイトワンピースにジャケットを着た、きちんとした服装。
やっぱり私は場違いなんだわ…。
少し心細くなって、仰いだ手塚さんに返した頷きも小さくなってしまう。無意識にきゅっとバッグの持ち手を握った時、さっきのスタッフが戻って来た。
「お待たせして申し訳ありません。」と話した当のスタッフは、近くにいたホールスタッフを呼んでから以外な一言を口にした。
「個室をご用意致しますので、そちらで如何でしょうか?」と。
手塚さんと私と、緩い動作で顔を見合わせる。
その前を、ホールスタッフの案内に沿ってカップルが通り過ぎていく。女性客は通り際、手塚さんを見てから横目で私を見た。
その視線をなんとなく冷たく感じたのは、私が気後れしているからなのか、それとも手塚国光という名の知れた人の横にいたからなのか…。
ちょっぴり泣きたくなった。
そんな、気持ちも視線も落ちかけた私の耳に、「いえ、」という張りを持った声が届く。
「今回はお気持ちだけ受け取っておきます。」
続いて告げた、サービスの提供を控える意志に思わず顔を上げれば、こちらを見た手塚さんの目元が優しげに緩んで。
「特別な取り計らいには感謝しますが、逆に落ち着きませんから。」
端的な断りの一言は、明らかに私を気遣ったものだった。
きちんと私の胸中を推し量ってくれたことを知って、また心は引き寄せられる。
新しく得た彼の欠片ですぐに気持ちを引き上げることが出来てしまう私は相当現金。現を抜かすって、こういうことを言うんだろう。
そして手塚さんは頭を下げたスタッフに、「チェックを。」と伝えた。とても落ち着いた声で、不安なことなど何もないと言うように。
そのあと店を出て次をどうするか話し、彼の提案で部屋にお邪魔することになった。
本当に一時間と言って出て来てしまったことや、予定表ボードにも外出としか書いてこなかったことを話したら、それなら下手に移動して時間を無駄にするより部屋に来ないか、と言われて。
一瞬答えを言い淀んだ私に「いや、他意はないんだ。」と付け足した彼は、少しぎこちなくて不安そうだった。
でも、だから判ったというか。
その時初めて、手塚さん自身別の意味を意識したんだと思う。
私はどうかと言えば、初めから全く考えていなかったなんて、一般的に見てあまり言えたことじゃない。知り合ってまだ数日しか経っていない男性の部屋に、一人で行くなんて。
そして答えを言い淀んだ実際が、この後の自分をただ心配しただけだったというのも、まだ手塚さんには言えない。
途中で聴こえた「そういうラフな恰好もいいな…」という彼の独白の方が、私を戸惑わせるのに余程効果的だったと思う。
「どうぞ。」
開いたドアの向こう側、室内の廊下から掛けられた声に小さく会釈をして中へ入る。なんだか心持ち畏まって足をそろりと出すと、手塚さんは声を詰めて微かに笑った。
「驚くような物はないぞ?」
「いえ、こういうホテルってそれだけで畏まるというか…。」
「ああ、それは確かに。」
その手がそっとドアを閉めて胸の前に上がり、掌を上に廊下の先のリビングへ。
「あ…」
思わず声になった驚きは、踏み入れたリビングから一面に臨む夜景がとても素敵だったから。
昨夜聞いたルームナンバーで高層階だというのは察しがついたけれど、二十階を越えた部屋から見る夜景まで想像していなかった。お陰で足はしっかり止まってしまう。
「上で見る方がもっと綺麗だと思う。部屋に招いた欠点はそこだな。」
後ろから聴こえた惜しみがちな声にはっと気付いて振り返れば、視線は手塚さんの瞳とぶつかって、少しの気恥ずかしさからはにかんで微笑み、視線をそらす。
私、こんなに恋に拙かったかな…。
「食事は済んでいるか?」
後を追った声はそんなことを一切気にしていない様子で、至って普通。
覚束ないのは私だけなのかと思ったら、ちょっと情けないような哀しいような気持ちになって、伏し目がちなまま首を縦に振ってみせた。
「じゃあ、軽い方がいいな…」
「あ、いえ、」
続けようとする私を遮るように、手塚さんは受話器を取って軽く口の端を上げる。
その、鋭さを解いた表情や空気に、心はあっけなく満たされていく。
そんな柔らかい表情をするなんて、反則…。
彼の計らいのままルームサービスのオーダーを入れる声が、しっとりと耳に響いた。
手塚さんが選んでくれたルームサービスは、次に響かない程度の軽いアンティパストだった。
カプレーゼやブルスケッタ、カブのファルシー。
どれもお酒が進みそうなものばかりで、呑みたくなってしまうなんて話をしたり、好きな食べ物のことや、海外での試合のことも少し。
それでふと、パーティーの席で聞いた話から、彼が海外に住んでいるんじゃないかと思ったことを思い出す。
「そういえば手塚さんは、」
アンティパストを一つもらおうとお皿へ手を伸しながら、小さく伺う視線を向けて。
「海外にお住まいなんです?」
「ああ。ドイツに。」
手塚さんは難なく、さらりと答えてくれた。
同時に、ドイツという単語から、以前周助が仕事でドイツに行くと言っていたことも引き起こされる。
あの時周助は手塚さんを撮りに行くなんて一言も言ってなかった。その時点で私は手塚さんとの接点を何等持っていなかったのだから、あさっりと話してくれればよかったのに。もっとも、隠すつもりはなかったんだろうけど。
そう思い返して、私と手塚さんが周助を共通の友人に持ちながら、まだ一度も周助の話題を持ち出していないことに気付いた。
手塚さんも、ある種の禁忌のように感じているんだろうか…。
だとしたら、ここでは話さない方がいいと───いいえ、私自身、話したくなかった。
だから、手塚さんの答えにだけ、意識を向けて。
もしかしたらとてもズルいことなのかも知れないと、自分のあざとさを感じながら。
「ドイツですか。どれぐらいお住いに?」
「十代の頃からだから、もう十年以上になるか。早いものだ。」
少し目を空へ遣って、確かめるように話す彼は懐かし気に目を細める。きっといろいろ思い出しているんだろう。
「十年も?じゃあ、ドイツ語も随分ご堪能なんでしょうね。」
手にしたカプレーゼを口に運ぶ前に話せば、僅かに苦笑した手塚さんの表情と声が後を追った。
「いや、それほどでもない。母音が二つ続くウムラウト表記の発音をきちんと会得していないし、無理なく話せるとは言えないな。」
「üやöは難しいですよね。私は全然ダメです。」
「俺も未だにそんな感じでなかなか身に付かない。日本語には無い発音だし、苦労してる。」
ちょっとしか知らないドイツ語の話も、手塚さんとだと楽しい。
「確か、chも日本語に無い…? ハとかヒの。」
クラッカーをひとくち食んで、その後に合った彼の目が、私の胸の内と同じように楽しげに微笑む。
「ああ、それも日本語には無いな。」
「発音は特に難しそう…」
「一人称のIchや二人称のdichがそうだから、他愛ない会話でもちょっとした発音の相違から伝わらなくて困ったりする。」
曖昧な表現をしない文化圏だし、尚更だな。と言って手塚さんは自嘲しがちな薄い笑みを口元に浮かべ、グラスを口元へ運んだ。でも、今聞いたchの発音は綺麗で。
だから、もう少し聞きたくなった。
「…他愛のない会話、ですか…」
カタコトにもならない私のドイツ語では、間違えなく会話にはならないけど。
「じゃあ、例えば、Ich…liebe dich.…とか…」
自然に動いた唇のまま、訊ねるように声にしてみた。最もポピュラーな口語文と言えば、ぱっと思いついたのはそれしかなかったから。
そしてその意味が「愛しています」だと気付いたのは、手塚さんが口元にグラスを寄せたまま動きを止めた時。
グラスに向けていた視線を上げてこちらを見た彼は真っ直ぐ私を見詰める。
思わず下を向く私。
気まずい…。というより恥ずかしい。
耳まで熱くなりそうで、手を膝の上に下ろしてきゅっと握って。
それと同じタイミングで「Ich auch.」と、落ち着いた口調が耳に届いた。
──「私も」…?
躊躇いがちに顔を上げてそちらを見ると、かすかに微笑んだ彼の、眼鏡の奥の和らいだ瞳が映る。
「Ich liebe dich auf dieser ganzen Welt.」
しっとりと耳を通った言葉はとても流暢で、本当に綺麗な発音だった。
ただ、残念なことに、流暢過ぎてしっかりと聴き取れなかった単語を推し量ってもその意味が掴めない。
「あの、今の…。しっかり聴き取れなくて…」
「そうか。じゃあ、書いて渡そう。」
手塚さんはソファーを立って、脇のローチェストからペンと便箋、封筒を取り、ソファーに座り直して左手を動かし始める。
その様子を見て、あれ…? と思った。
ペンを持っている手は右ではなく、左。
──手塚さん、左利きなんだ…。
撮影の時も、昨夜手を取ってもらった時も、左手の動きは何度も目にしている。それでも気付かなかったのだから、一体何を見ていたんだか。
けれどどちらにしても、利き手を動かしているのを見たのはこれが初めてで、とても新鮮に感じられた。
ペンを走らせていた左手が止まる。
しなやかな腕から伸びる手がさらりと便箋を折り、封筒に入れて、こちらへ差し出して。
「帰ったら開けてくれ。」
差し出された封筒の、少し固めの白が眩しい。
こくりと小さく頷いて、その真っ白な封筒に指先を伸した。
「大したことは書いていないが綴りを間違えている単語があるかも知れない。意味が通らなかったらニュアンスで読んで欲しい。」
ゆっくりと離れていく左手と。
「普段は口に出来ないようなことも、手紙だと書けるものだな…」
封筒を見詰めて独白のように動いた静かな唇と。
解けた空気に溶け込む優しい気配が、また一つ新しい彼を伝える。
「手紙、いいですよね。貰うのも書くのも気持ちが暖かくなります。」
小さく笑って、彼に送っていた視線をグラスの中で立ち上る細かな泡へ移した。
最初から僅かだった時間が、満たされたものだと過ぎるのは尚更速い。
気付いた時には、壁に見る時計は二十二時と三十分になっていた。
これ以上はいられない。
すぐに帰らなければチームスタッフに申し訳が立たない。だからすぐ、戻ることを伝えて。
「長居してしまいました。楽しくてつい、時間を忘れてしまって。」
「引き止めてしまったな。すまない。」
ただでさえ制約のある時間を止めたいと思うこと自体、子供じみた感傷なのは十分分っていたけれど。
「いいえ…。」
分ったつもりでいたことを、今になってようやく、別れ際の挨拶で知った。
それでも時間は止まってくれないから。
後を引く気持ちのままソファーを立って、このあとの私たちを隔てるドアへ向かう。
さっきまで正面にあった気配を今は背中で感じなければいけないことに、胸はきゅっと苦しくなっていく。
名残惜しい。帰りたくない──もっと一緒にいたい…
どれも口にしたら泣いてしまいそうだった。
だから振り返ったドアの前、少し切なく見える手塚さんへ、精一杯の笑顔を向ける。
「今日はありがとうございました。」
それが明らかに無理をしていると自分で判っても、隠すことも取り繕うことも出来なかった。
そんな余裕があったら無理に笑ったりしないもの。
「本当に楽しかったです。」
笑顔のままゆっくりと頭を下げる。その視界に映り込む彼の左手。そしてそっと、バックを掛けていない方の私の右手を取って。
「帰したくないとは言えないからな…」
思わず仰いだ先、視界に映る彼は苦しそうに瞳を揺らしていた。それは昨夜と同じように見えて、けれど全く違っている。
「代わりに、きっと無理だと判っているが言わせてくれ。」
「……。」
「明日の夜の予定は?」
頼りなくゆるゆると首を横に振る私自身が胸を叩き。
「明日は…多分、無理……」
手をしっかりと握り直されて、その仕種に心は泣く。帰りたくないと、か細い声で。
「…でも、お見送りに、ここへまた…来ます。」
途切れがちだった震える声と心を押え込むように笑って、握った手が彼の手に引き寄せられ、背中に回った腕でその胸に抱き込まれた。
しっかりと抱き締められれば押え切れなくなった声が吐息になって零れる。
それだけで堕ちてしまいそうになって、背中に回った腕を解くように、両手でその胸を押した。
「ダメ、」
咄嗟に離した身体が作る少しの距離に、彼を仰いで懇願する。その声は自分で聴いて判る程どうしようもなく潤んでいて、余計に泣きたくなってしまう。
不意に胸を押されて声にならない声を息で示した彼の、私を抱いていた手もそのまま放り出され、少ししてから酷くゆっくりと握り込まれて下りた。
レンズの奥の瞳には戸惑いと不安と。
きっと私が全身で彼を拒んだから…。
「…仕事、出来なくなっちゃう……」
拒んだ理由をきちんと挙げておきたくて発した声は、やっぱり潤んで涙声さながら。
「…すまない。」
戸惑いや不安を視線に含めて落とした彼の声も、微かに潤んでいる。
違うと、出来ることならこのまま抱かれたいと、余程言いたかった。
それを声に出来ないもどかしさから、右手は自然とその左腕に伸びて身体も距離を縮める。
すぐ両腕に包み込まれた身体を胸へ預け、軽い抱擁をして。
「じゃあ…行きます。」
「ああ…。」
そっと離した身体のまま後ろに数歩下がって、振り切るように背中を向けた。
引いたドアの音をこんな辛く感じたのは、これが初めてだと思う。
帰りの交通手段をどうしようか考えながらエントランスを抜け、結局ドア・トゥ・ドアのタクシーを選んだのは、まだ彼に心を残している状態で電車に乗ったら乗り過ごしてしまいそうだったから。これで更に遅くなるなんてこと、あっちゃいけない。
運転手さんに行き先を伝えた、走り出す車の後部座席。
遠退いていく高層のシルエットに彼を思い浮かべ、心が大きく軋んだような感覚を抱いて左胸を押さえる。
そして、ふと気付いた。
名前を教えそびれたことに。
別れ際の苦しさで、気持ちが全部彼に向いていたから名前のことをすっかり飛ばしてしまっていた。会話にも違和感がなかったし、名前を教えていなくても案外話せるものだと妙に冷静なことを思ってみる。
だからと言って、名前を教えたくない訳ではないことも。
そして手塚さんの姿や表情、声も気配もさっき私を抱いた腕も、噛み締めるように思い返して。
──手紙…。
真っ白なあの封筒が脳裏に浮かんだ。
膝の上のバッグからそれを取り出す。
帰ったら開けてくれ。と彼は言ったけど、事務所に戻ってからではきっと見れない。彼の筆跡や言葉を見てもちゃんと手を動かせる自信は皆無に等しかった。
封入口にそっと指を掛け。
小さく聞こえた紙擦れの音にさえ呼応して、心が震える。
開いた便箋には、流れるようにたおやかな文字。
"Ich liebe dich auf dieser ganzen Welt."
(世界中で一番君を愛している。)
Ich freue mich, dass du gekommen bist.
(君が来てくれて嬉しい。)
Ich wünsche Dir viel Glück und viel Erfolg bei Arbeits.
(仕事の成功と幸運を。)
Gute Nacht, fein Liebchen.
(おやすみ、愛しい人。)
きちんと勉強した訳じゃない、中途半端に覚えている文法や単語を頭の中で全部引っ張り出して読んだその文章に、今度こそ涙が零れた。
「手塚さん…」
こんなにも心を震わせるその名前を、確かめてみる。
本当に小さい声で、誰にも知られないように。
──お見送り、ちゃんとここに来よう。
もう一度必ず、あなたに会いに。
大きく下を向いた顔を隠すようにして、そっとその便箋にキスをした。
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