昨夜の腕が、まだ身体に残ってる。
しっとりと甘く心を溶かして、もうずっと捕われっぱなし。
「チーフ、このテクスチャ…─ ──」
貰った手紙も頭の中に住み着いてしまった。
事務所に戻ってからなんとか動かした手だって布越しの彼をしっかり覚えていて、気を抜くと仕事を忘れそうになる。
「チーフ…?」
ぼんやり見つめるモニタの先、チェックしたニュースサイトのテニス関連記事にさえ面影を重ねるなんて、本当に重症…
そして惹かれていることを認めれば、今度は周助のことが、手塚さんが周助の旧友だということが、気にかかる。
「チーフ、どうなさいました?」
なんとなく耳に届いていた伊織ちゃんの声が心配そうな調子に変わって、ハッと胸を突かれた。弾かれるように隣を見れば、気にしがちな様子で眉根を寄せた表情の彼女。
「大丈夫ですか?」
「…ごめんなさい。」
「体調、悪いんじゃ…」
伺うように覗き込む視線もそう──心が痛む。
「…いえ、大丈夫。何でもないわ。」
「うーん…。昨夜お戻りになってから仮眠を取らずに仕事なさってましたよね…。」
確かに昨夜はずっとデスクに向かっていた。でもそれは、贖罪と言ったら大袈裟だけど、大幅に遅くなった帰社時間を購うためで、もっと言えばそれぐらいしないと仕事を巻けなかったからだ。
明日は代理店にデザイン案を提出する予定がある。なんとか提出分は全部上げられたけれど、このあとまだ整え直してからじゃないと先方の目には映せない。それに、総括する責任を一時でも手放したのなら休憩返上は当然のこと。彼の部屋に気持ちを残したままの手がスケジュールを押してしまったら、本当にシャレにならないから。
「今週、詰まってるからね…。」
私の声に、いくらか煽られたのだろう不安を取り混ぜ、伊織ちゃんはゆるゆると視線を落とした。
「帰りが遅くなったとか、誰も気にしてないですよー。ちゃんと休んでくださいね。チーフが倒れたりしたら、私間違えなく山を越えられません…。」
彼女が初めてひとりでこなした仕事は明日山を迎えるから、不安もひとしおなんだろう。
「大丈夫よ、倒れたりしないから。それに、ひとりでもちゃんとできているから安心して。」
「ありがとうございます。じゃあ、ここの確認をお願いします。」
幾らかほっとしたらしい様子でにこやかな笑顔を見せた彼女は、なんだか初々しくて可愛い。ちゃんと責任を持って最後まで見てあげたいと思った。それなら、昨夜の記憶や周助とのことに現を抜かしていられない。
「はい、今。」
こくんと頷いてモニタに目を移す。何度も見ているその作成データを開いた時、前に座るスタッフから「チーフ」と呼ばれた。
「はい?」
「不二さんからお電話です。」
周助…? こんな朝イチに…?
今しがた考えに浮かんだ人の名前を耳に、どきりと音を立てた胸を説き伏せるように口を開いて。
「わかりました。回して下さい。」
朝イチの電話で性急さを要していない電話はあまりないし、大した用件でないことを願いながら受話器を取る。
「はい。」
『おはよう。』
受話器の向こうに聴こえた音声は、ヤケにノイズっぽかった。
「おはようございます。ノイズが多いみたいだけど、移動中?」
『ああ、これからウェディング・パン────りがあってね。今、現場に向かってる───んだ。』
「そう、朝からお疲れさま。今回もリゾート撮りなの?」
『いや、今回は───』
行き先を告げたらしい声がノイズに飲まれて途切れる。ぼやけた話はほとんど不通。
「ごめんね、良く聴こえないんだけど…。」
『ああ、すま────こえるかい? 今回は───、先日パーティーがあったホテ──。』
やっぱり途切れ途切れの返事をもう一度聞き直す前に、私は一瞬全てを止めた。
辛うじて聞き取れた言葉の切れ端、先日パーティーがあったホテルって…。
データの映っているモニタに、手塚さんの面影が入り込む。
『それで用件な───、佐山さんからも連絡があると思──』
昨夜の甘く優しいキスや、偶然がもたらした彼の手紙。
限られた時間を最大限使って話した、彼の遠征中のエピソードも休日の過ごし方も。
ああ…こんなにも手塚さんが溢れてる…───
無意識に零れる微かな甘い息を抑えることはできなかった。
『どうした? 聴こえない?』
「あっ、いえ…。えっと、」
慌てて返し、それを窘めるように受話器越しの声が小さく唸る。彼が何を知っている訳でもないけれど、ちょっと気まずい…。
「あの、ごめんなさい、もう一度…」
『いや、早急に対応しないと───────ないから夜にでも行くよ。』
多分、急ぎの話しじゃないと言っているんだろう。なんとなくそう推し量って。
「…そう。」
『……。』
受話器の向こうの周助はそのまま押し黙った。明朗な彼が躊躇うことはほとんどないし、抱いた違和感に口を開く。
「どうしたの?」
『ねぇ…』
「はい。」
『…昨夜さ……いや、────ない。』
その様子から、どうも何かを躊躇っているらしい事を知る。しかもやっぱり途中で切れてしまった話では会話の成立に遠い。ノイズに飲まれて聴こえなかったのか彼が本当に黙ったのか、どちらなのかは分からないけど。
「やっぱり聴こえ難いかも…。会話は難しいみたいね。」
『そうだね、悪い。また夜、───に行くよ。』
「ええ、わかった。」
『じゃあ、また後で。』
妙に静かな口調で電話は切れた。
今の声が幾らかトーンダウンしたように感じられたのは気のせい?
また、なんとなく心が重くなった。でも今は仕事中。曖昧な不安に捕われてはいられない。
気を取り直してモニタに目を向け、今度は別の人に呼ばれた。顔を上げて答えの替わりにすれば、「佐山さんからお電話です。」と続く。
きっと周助が掛けてきた用件と同じだと思う。
「回して下さい。」
こくりと頷いて電話に手を伸した。
周助の事も手塚さんの事も、今は心の奥に仕舞っておかなくちゃ。
昼間、三時頃にクライアントへ出掛けた伊織ちゃんの仕事は、明日本刷りに入ることになった。特に大きなトラブルもミスもなく、その旨の連絡を印刷会社へ入れて。
退社時間を疾うに過ぎた社内の、今は私ひとりが居残るフロアでモニタに映ったデザイン案をぼんやり見る今、“仕事が最優先”という言葉だけ、乾いた音を立てている。
周助は結局、夕方に一度また電話を入れてきたっきり、顔を見せていない。
夜には来ると言っていたけど、大半のスタッフが退社した現時刻になっても気配はなくて。
彼が来ていないことも気掛かりと言えば気掛かりだけど、こうやって時間の空きが出来ると思いを馳せるのは、やっぱり手塚さんのことになってしまう。
いいえ、手塚さんことを常に心に留めているのだから、もうそれは『思い出す』なんて程度の話じゃない。
末期的ってこういうことを言うんだろう。
気を取り直すように見遣ったデスクの右端には伊織ちゃんの仕事のテストプリントが明日の本刷りをひっそりと待っていて、その光景にほぉっと小さな息を漏らした。
その直後、デスクの脇に置いた携帯の着信ランプが静かに点滅を始めて。
(きっと周助だわ)
こんな時間に掛けてくるのは周助ぐらいしかいない。
そう思って確かめたサブディスプレイにはやっぱりその名前が光っている。
なんとなく重い指を嗜めるように力を込め、通話ボタンを押した。
「はい。」
『ああ、すぐに出られたんだね。今、どこにいる?』
手塚さんと出会ってから聞くたび、どこか後ろめたい気持ちを引くその優しい声は、いつもと何も変わらない。
「ええ、まだ事務所。」
『そうなんだ…まだ帰れない?』
「うーん…もう少し。」
『君だけ?』
「そう。」
私の返事を聞いた彼の声が、携帯越しでも鮮明に、小さく唸った。
『じゃあさ、これから三十分後ぐらいにそっちに行くから、適当なところで切り上げて待っていてくれないかな?』
これから来るの…?
何か急ぎの用…?
「…えっと……」
『車だから帰りは送っていくよ。』
彼の声から急を要するような切迫した感じは受けない。それなら単に気遣ってくれただけなのかとも思う。
「ありがとう。分かりました、何かあったら連絡します。留守電にでも入れておくわ。」
『うん、こっちもそうするよ。じゃあ、後で。』
「はい。」
普段のままだった周助との会話は普通に終った。
でも、何かが少し、気になる。
心の隅っこに違和感というか、何か引っ掛かった感じ。
私自身、昨日食事の誘いに乗れなかった事を、そしてその時間帯を手塚さんと過ごしたことが気になっているからなのかもしれないけど、なんとなくすっきりしない。
別の何かがある?
そう考えれば私たちの関係自体を見直すところから始めなければならないような気がしてくる。
あるいは私の思い及ばないことで周助が何かを気にしていたのなら、それはもう、今ここで探っても仕方の無い話で…。
後でさらりと訊いてみようと思いながら、モニタに目を向け直した。
「遅くなった、ごめんね。」
不意に耳を衝いた声がドアを開ける音と被っていなかったら、ぼんやりと間延びした顔を、周助に見られていただろう。
それぐらい、思い起こしていた手塚さんとの記憶が鮮やかすぎて、全てを飛ばしてしまっていた。
「お疲れさま。道、混んでた?」
取り繕うように返した言葉の次に目の焦点をしっかりとって、その先に捉えたデザインナイフへ手を伸ばす。
さっき試しでプリントしたデザイン案の端を切るために──という理由付けの効くアイテムは、この場を繋ぐのに丁度いい。
近づく足音をかわすように、取ったデザインナイフを持ったまま立ち上がり、プリンターへ向かって。
「うん、大通りで事故があったらしくてさ、少し手前の交差点からずっとのろのろだったんだ。連絡できなくてごめん。」
よかった…何も気付かれていない。
普段と変わりない柔らかな声が何も含んでいなさそうなことにほっとする。安心した心持ちで周助の方を見遣れば、私の安心感とは反対に彼の纏う空気には疲れが覗いているよう。
ひょっとしてまた夜間ロケとか、遠方に行ってたとか、そういうことかも。
「そう、大変だったわね。もしかして今まで仕事?」
「そうなんだ、今日はフェネックの撮りがあってね。動物園で夜間ロケ。」
あー、やっぱり…。今日も大変だったんだわ…。
「遅くまでお疲れさま。お茶、いれようか?」
労いというより心配に近い気持ちで、デスクの前まで来た彼に訊けば、その面長の顔が横に往復する。
「今はお茶よりベッドの方がいい。」
苦笑しがちに笑った様子は何かが磨り減っている感じ。明朗な周助の普段とははっきり違う。
きっと本当に疲れているんだろう。こういう状態でも明日はきっと通常だろうし、元々機材の多い仕事だから、何よりも今は早く休みたいんだと思う。
それなら私もこれで切り上げた方がいい。
「わかった。私もこれで上がることにするわ。」
「そうしてくれると助かる。」
「ええ、今片付けちゃうわね。」
やっぱり疲れがちな笑顔で頷いた周助を前に、踵を返した。
本当はどういう目的で来たのか聞きたかったけれど、彼が言わないうちは突っ込まない方がいい気がして、ただ足をプリンターの方へ向ける。
余白切りも明日に回し、持ってきてしまったデザインナイフは作業机へ。その手を机の上に伸し、大判の用紙を取り上げて。
「ねぇ」
紙を巻く手にバサバサと紙擦れの音が響く中、私を呼ぶ声を耳に覚えた。
手は用紙を上げたまま、顔だけゆるりとそちらへ向けると、彼は私のデスクの上をじっと見ている。
その瞳が何を捉えているかは分からない。分からないけど、醸す空気は危うい。
とても静かなのに、何かを含んでいる感じ…。
「なに…?」
用紙を巻きながら、その空気を覗き込むように訊く私の声も剣呑で、なんだか牽制しあっているような気がする。
「不二さん…?」
声を掛けてもまだ彼の顔と視線はそのまま。
段々と重くなっていく空気と、増していく気掛かり。
そんな危うさに心臓を握り込まれている気がして、一度そっと唾を飲み込んだ。コキュッと鳴った音は小さい筈でも、なぜか大きく耳の奥で響く。喉の奥が気持ち悪い。
「何かあった…?」
彼との距離に、空気だけで伺って、不意にその顔が上がった。
「手塚と寝たの?」
え…───今、なんて…
「…は?」
巻き終った用紙を握る手にも顎の奥にも思わず力が入る。
「何を…言…」
「いいから答えて。彼と寝たのか寝てないのか。」
私を捉え、一歩こちらに踏み出す足先。
「…そんな、こと…」
否定も肯定もできるどころじゃない。見開かれた真剣で強い瞳と鋭さを持った眼差しに射すくめられて、ただ狼狽えるだけで精一杯。それを隠すことなんて当然できない私へ、周助は容赦なく距離を近くする。
「どっちなんだ?」
このまま用紙を握っていたら、きっと潰してしまう…
頭の隅に小さく浮かんだ事もすぐに掻き消されてしまうほど、静かな口調も低い声も、そこから放たれる威圧感も全部、今の周助が怖い。
「あなたに、関係ない…でしょう…?」
それは、真意であっても今この場でいってはいけない一言。なのに、この口はもう嘘は吐けないと言わんばかりに、声にしてしまった。周助にとっては挑発とも取れる、そんな言葉を。
自分に泣きたくなったその時、彼の足が止まった。
「関係ない…?」
けれどそれは一瞬で。
また踏み出された足に追い詰められていく感覚が、ひどくはっきり体を覆う。そんなギリギリの危うさも怖さも、非情なまでに周助には届かない。
「じゃあ僕がまだ君を愛してると言ったら? それでも関係ないの一言で済ませられる?」
「…っ、」
目前に迫った彼の唇が告げた一言は、一番聞きたくなくて何より辛い一言だった。
「僕がどんな思いで今まできたか、君には分からないだろう。」
続く声に含まれた悲哀が、思わず下を向いた足元からも上ってくる。それが苦しくて、辛くて。
───どうすれば彼を傷付けずに済むんだろう…?
紙の潰れる音がくしゃりと響いた。
その音はまるで、心の泣き声のよう。
痛い。胸も耳も、噛み締めた唇も。握り込んだ右手も。
そして左の肩に、大きな右手が触れる。耳元に寄せられた唇は、囁くように私の名前を流し込んで。
「…まだ取り返しがつくと言ってよ。」
そのまま首筋を滑り出した唇に周助が意図しているこの先を知って、咄嗟に両手で彼の二本の腕を掴んだ。
「周助っ」
掠れがちな声で呼んでも、その唇は止まる気配を見せない。瞬時に引き戻された怖さが急な加速度で体に満ちる。けれど逃れることさえ封じられたように、すくんでしまった足はただ震えるだけ。
「お願いッ、落ち着いて!」
肩を降りていく右手と脇を抱いた左手に懇願する私の声が彼にどこまで届いているのか。
目の奥が熱い。
「周助ッ!」
腰に降りた右手が薄手のカットソーの内側に潜り込んで、その肩を掴んでいた両手で力いっぱいドンドンと叩いた。こちらの手が痛くなるぐらい、何度も。
そんな必死の抵抗も、鎖骨を辿る唇にあっけなく封じられてしまう。
「本当に嫌なら全力で抗えばいい。殺すぐらいの勢いで。」
聴こえた声は今まで聞いた事のない真剣な様子を露にして、私の心を撃つ。
一つめの雫がこぼれ落ちた。怖さからではなく、悲しくて。
二年前ならまだ受け入れられたかも知れない。けれど今の私にはどうやっても無理なことを、その唇と指に知ってしまった。私が望むのはこの唇ではないと。
溢れて頬を伝うの涙がそれを裏打ちする。
「周助ーッ、」
私の気持ちも涙も、全部を度外視して布をたくし上げる右手と私の胸に重なる彼の胸。
抗おうとして上体を逸らせ、作業机の上に肘をついた時、その先で右の指に何かがに触れた。
細くて丸みのある形は、多分デザインナイフ…
咄嗟に指先を動かして握り込み、祈るような気持ちで親指に力を込めてキャップ取る。
「やめて!」
全身で叫んだのと同時に、握り込んだ手を自分の顎の下へ遣った。一瞬びくりと体を強ばらせた周助の、ゆっくり上がった瞳に短い刃の鋭角が映り込んで。
「…ッ、」
「これで、許して…。私の、精一杯の…抵抗…」
息も絶え絶えに訴えるこの声が、どうか彼に届きますように─────
そして周助は眉根を寄せて深い溜息を一つ。その後、後を引くように緩慢な動きで体を起こした。
無言でドアの方へと向いた背中が離れていく。
震えるまま握り込んで力の抜き方も忘れてしまった手を辿々しく下ろした直後、何かが壁を叩き付ける鈍く短い音を聞いた。
「ちくしょう…」
耳に届いた小さな呟きと、ぎこちない動きで向けた目に映る、壁に着けられた拳と。
それでまた私は泣く。
どうして周助じゃないんだろう?
どうして私なんだろう?
ただ辛かった。辛くて遣り切れなくて、それでも私は彼を受け入れられない。名前を呼んで欲しいのは、愛してると言って欲しいのは手塚さんだから…
「手塚さん…」
周助がいなくなったフロアで泣きながら手塚さんを呼んで。
名前…呼んでもらいにいこう…
今すぐ抱き締めてもらいに…
そして数え切れないぐらい沢山のキスを─────
堰を切って溢れだした想いのまま作業机に掴まり、しばらくへたりこんでいた体を引き上げる。結構しっかりしているらしい足は、デスクに向かう間に走れそうなところまで調子を戻してくれた。
後は本当に走って。
彼の元へ。
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