三つ目のチャイムを押して急に不安になった。
何も考えずにここまで来たけれど、彼がいるとは限らないことに気付いて。
忙しいのは昨夜の話から十分伺い知ったし、時間だって遅い。
──会えない…のかな…。
胸の内でそう呟いたらとても悲しくなって、何を思うより早く泣き出してしまった。まるで聞き分けのない子どもみたいに、ぽろぽろと。その時、勢い良くドアが開いた。
「どうしたんだ、」
驚きと心配を混ぜた面持ちの手塚さんを前にしても、涙は止まらない。
「てづ…さ、」
零れ落ちる涙の訳をそれ以上聞かず、彼は素早く私を引き寄せて。
背後でゆっくり閉まったドアの音が、廊下に留まる私達を柔らかく包んでいく。
「名前…なまえを、」
バッグも床に落として手塚さんの首に取り縋り、その耳に寄せた唇を精一杯動かして伝えた言葉は震えていた。でも大丈夫。彼が抱き締めてくれているから。
「呼んで…欲しかったの…。、って…」
途切れがちに伝えた声の後、そっと、この耳に触れる唇の動く気配。
「…愛してる。」
きつく抱き締めた腕の強さと真逆の声。
その濡れたトーンに目眩さえ覚え、首に取り縋った腕の力も抜けてしまった。力の抜けた腕をゆるゆると下ろす私を、彼はもっとしっかり抱き絞める。
「てづ…」
「俺のことも名前で。」
「…国光…」
震える声でやっと、名前を初めて呼んで。次の瞬間腕の力が緩み、唇も耳元から離れた。
一度指先で頬を拭った後、その唇がゆっくりと重なっていく。
触れただけで甘いと分かる唇。
こんなに甘いキスは他に知らない。
まるで心へくちづけられたように、私は酔いしれていった。
「眼鏡、外して…?」
「まだだ…」
「…どうし、あ…、」
声を遮って伸された左腕の後、唇がもう一度重なる。
その腕も唇も性急で、彼の熱っぽさに少し驚いた。
理性的で冷静にしかみえない印象と裏腹に、体の内側は火傷しそうな熱を宿しているなんて、誰が想像できるだろう?
そして抗うつもりもない私は自ら進んでその胸へと体を預ける。
少し冷たい唇とは反対に舌先は酷く熱く、これから知ろうとしている彼そのもの。
「フレームが当たるの…」
呼吸さえ惜しむように重ねられる唇を躱しても、すぐに掴まってしまうから。
「全部見てからこの指に外してもらう。」
「そんなこ…っ…、」
月明かりを頼って求めあう私達はほとんど手探りも同然で、その瞳にどこまで私が映っているか良く分からない。だから余計、そんな一言が不埒に感じられる。髪をゆっくりと混ぜていく右の指もそう。それだけじゃない、鋭くなった五感に訴える彼の全てが。
でも本当に不埒なのは、薄手の裾から腰へと忍び込んだ手に撫で上げれられて、ぞくりと震える私の肌。
こんな感覚にずっと無縁だった所為で、少し怖くなった。それを察したように不意に唇が離れる。
「震えてる。」
もう一度軽く触れて、下唇をそっと咬む彼。
だってあなたがそんな風に私の全部を絡め取るから…簡単に自分を手放してしまいそうで…。
「…ちょっと、怖い…」
「何が怖い…?」
視線を下げ気味に、ただふるふると首を横に振ると、一呼吸の後、彼の唇から声になった深い吐息が零れた。
しっとり尾を引いた息と、ほんの少し眉根を寄せてゆっくり瞼を上下させた仕種。
艶っぽくも切な気な仕草を目に、体の内にはじんとした熱が広がっていく。それを煽るように腰を抱き直した手は、また肌を辿り始める。
「全部委ねればいい。」
耳に流し込まれた声に、今度こそくらりと視界が霞んだ。
もう本当に、今すぐ欲しいと強請ってしまいそうになる。満たされなければまた泣き出すまでの時間は多分そんなに掛からない。
それぐらい彼の全てを全身で欲していた。
そして縋った腕の強くも優しい感覚が、早く堕ちてしまえと唆す。
しばらく誰とも抱き合わなかったのはこの腕を待っていたからだと、ほとんど戯言のようなことを思った。
「好きだ…愛してる…。」
囁くように声にした唇が落とされ、深いくちづけを交わした。彼の腕の中で、ただ夢中に。
それからどれぐらい経ってベッドに辿り着いたんだろう?彼しか見えていなかったこの目には、他のことがあまり映っていなくて。
その時記憶と心に刻み込まれたのは、白く滲んだ月の光りが照らし出した、私を見下ろす瞳だけ。
とても切なげで、少し苦しそうで。
もつれがちな足では上手く歩けず倒れ込むように体を横たえたベッドの上で、もう彼の所以外どこへも行けないことを悟った瞬間だった。
「くにみ…」
「、」
何度も呼び合う名前と合わせた肌。
触れる唇も指も、髪の先までも。
「愛してる、…」
囁きあって求めあうその一言だけが、今の私達を形作っている。
震えがちに伸した腕で彼を呼べば、そっと取って握られた腕の内側にキスが落とされる。
一瞬、ちゅ、濡れたと音がした。
それはとても小さかったけれど、私の耳を刺激するには十分。
そんな私を楽しむように、彼は熱く濡れた舌先をほんの僅か肌に乗せ、ゆっくりと滑らせていくから、なんだか焦らされているような気がして泣きたくなってしまった。
こんなに強く欲しいと思ったことは一度だってないもの。
「国光…」
少し潤んだ声で、彼を呼んでみる。でもやっぱり、高まる私の熱に応えるつもりはないらしい…。
さっきこの指で眼鏡を取った裸眼の瞳がこちらを見たのはほんの一瞬。そして、ちらりと上目遣いのそこに微かな笑みを感じ取れば、追い詰められていくことさえ愉悦に変わる。
唇はゆるゆると首筋を辿って鎖骨へ。髪に差し込まれた右の指先は、撫でるように混ぜ込んでいく。
「…っ、」
左の胸へと下りた唇に肌をきつく吸い上げられて、反射的に喉の奥が鳴った。多分結構しっかりと痕が付いただろう短い音は、同じあたりで何度も繰り返されて。
痕を付けられるのはあまり好きじゃない。なのに肌の下で燻る熱が呼応して、その音を聴く度にじわじわと体の中心へ集まってくる。
急激に上がった熱を少しでも逃したくて、絡め合った左の指に力を込め、握り返されたのと同時に彼の瞳が上がった。
「君の心臓の上だ。」
「…。」
「次に抱くまで消えないように。」
そんな甘い言葉を、今ここで言うなんて…。
「ずるい…」
「そのまま返そう。」
熱の籠った眼差しを向けた後、ぺろりと痕を舐めてみせる。そしてその唇で胸の先端に触れる彼。
「─ッ…」
やっぱりずるいのは貴方だって、そう口にする間もなく体を走った鋭い刺激に思わず小さな声を上げたけど、すぐに胸を食まれて与えられたそっちの方がずっと大きい。
まるで私の声を合図にこの指から解け、右の胸に触れた指先も、もっと私を追い込んでいくんだと思ったら、体はそれを期待しているみたいに独りでに潤んだ。
でも、感じる小さな怖さを拭い切れない───それは溺れている証拠。
このまま熱が上がり続けたら息さえできなくなりそうで、肩を掴んで彼を引き剥がした。
私を呼んだ声が少しの驚きを見せても構わず、しなやかで広い裸の胸に体を重ねていく。
「…、」
小さく眉根を内に寄せた彼は、そっと甘い息を吐いて。その切なげな様子に私の胸もジンと痺れる。
彼を感じられることがこんなにも嬉しい。私のこの熱も胸が苦しくなるような切なさも、全部彼がもたらしたのなら同じように与えあって奪い合いたい。くちづけて自分から舌を絡めたのだって、私だけ与えられるのが嫌だったから。
夢中で交わすキスの途中、背中に回った腕の先に指でゆるゆると肌を撫でられ、それでまた意識は眩んだけれど、精一杯顎から首へ唇を滑らせて彼の輪郭を辿った。
同時に下ろしていく指先は無駄のない胸を撫でて、脇から脚へ。
「…」
その合間合間に彼が漏らす息も私を呼ぶ声も、やっぱり甘い。甘くてしっとりと滲み、私の心と体を溶かす。喉仏を唇だけで咬んで、コキュッと鳴った喉元の音もそう。
あまりに高まった熱を少し鎮めたかった筈なのに、反って熱くなってるなんて、どれだけ愛してしまったんだろう…。
自ら切なさを引き戻してしまった後、指を伸した下腹部で彼の熱に触れて、その喉が大きく震えた。
「く…っ、」
声を詰め、喉の奥で快楽を伝える彼。
まだこれだけの事で過敏に応えてくれる。そんな一つ一つが愛しくて仕方ない。もう本当に、泣きたいぐらい。
愛しさのまま唇で鎖骨を辿り、張り詰めた熱をそっと撫で上げた時、背中に回っていた腕に引き倒された。
「きゃ…、」
「それ以上は駄目だ…。」
シーツに倒れ込んだ私を抱き直し、腰を寄せた彼はそんなことを言う。また見下ろされた瞳はひどく熱く、揺れているのに。
「…どうして…?」
「…体で答える。」
何気なく際どい一言を密やかに返して一度頬にくちづけた唇が、性急に首筋を滑って胸元へ落ちた。
そのまま躊躇うことなく胸を食む。
ゆるゆると脚の付け根に這わされる指先まで熱い。思わず伸した手で肩を掴み、力を込めて。
「─…ぁッ…」
ゆったりとそこを撫で上げる指に、びくりと跳ねた爪先でシーツを蹴った。けれど、その挙動が何の意味もなさいことを、絶え間なく与えられる快楽に思い知る。
こんな全てを受け止めるだけで精一杯なら、今の私を思うように出来るのは私じゃなく、彼。そして彼は、まだ終りじゃないと言わんばかりに唇を胸から下ろし、腰から脚に移していく。
ゆっくり脚を開かせる手と、何度も緩やかに往復する微かな指先と。
じりじりとした熱が腰のあたりで燻る。
感じるもどかしさに顔を覆った次の瞬間、あまりに容易く捉えられた私の中へ、長い指が沈みこんだ。
「…っ─…──」
喉の奥で絞り出した声は引き摺るような音にしかなっていない。濡れた体を知らしめるように響く水音に耳まで侵され、ゆったり掻き乱す雄々しい指にも意識を削ぎ落される。
もう本当にギリギリ。
シーツを掴んで必死にもがいた。
それさえ無駄だというように、唇は花弁を包み込み、舌先で花芯を舐め上げていく。あまりの刺激に耐えかねて震え出す脚さえ、時折触れて付け根をきつく吸い上げる唇に煽られて。
これほど淫らで強い感覚を突き付けられて、この後の私に何が残るというんだろう?
何もかも全部、もう抑えられない。
「くにみ…っ、もうダメ…ッ」
自分を手放してしまう前に、その抵抗のように頭を打ち振って彼を呼んだ。掠れた声で必死に。そして握って引き寄せたシーツを掴む手に大きな手が触れて、優しく握る。
「俺も…もう…」
その声は苦しげに熱を持ち、近付く彼の気配に目を開ければ、月明かりを受けて色を深くした瞳が切なく揺れている。そこにはさっき見せた余裕のひと欠片もなかった。
ああ…、彼も熱を持て余しているんだ…。
同じ熱を分け合っていることが嬉しくて、苦しい。
小さな息をそっと吐いて頬にキスが下り、その体のどこよりも熱い彼が潤み切った場所に触れた。
「…ッ」
思わず上げた小さな声は、受け入れていく最初の衝撃から。じりじりと分け入ってくる感覚に不慣れな所為か、痛みはなくても重苦しく感じる。
息をゆっくり整え、と同時にその体が重なって、名前を呼ばれた。
「」
「くにみ…」
「愛してる…」
何度も、繰り言みたいに呼び合い、囁きあって。
隙間なく合わせた肌の下の、速く大きな心音。
微かに漏れる苦しげな声。
私の体を抱く強い腕も、汗に滑る肌も。
繋げあった体でお互いを確かめていく。
部屋には私の上擦った声と、繋がった場所から響く水音だけ。その音はとても淫靡な筈なのに、今の私には甘く滴る甘露なものでしかない。
きっともう、マトモな耳じゃなくなってる。
狂っていく五感を捨てるように広い背中へと腕を回してしがみつき、不意にその腕が首の下を潜った。
「おいで、」
そのまま抱き上げられた体は繋がりをもっと深くして、私達が解けないように快楽で縛り上げていく。それに抗う気持ちも術も、意識の中には一つも無かった。
「」
また耳に名前を流し込んだ彼は、私をきつくきつく抱いて。
「…好きだ…愛してる、」
「──ッあ…ァ、」
揺らされていく体に宿った熱が急な勢いで膨らむ。
「国光、くにみ…ッ!」
何も考えられないまま悲鳴を上げるように、その名前呼んだ。
一つだけ胸に残っている、明日には彼が発ってしまうことを、ひどく切なく感じながら。
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